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HOCKEY DAYS!  そこにはいつも大文字

白井 聡(昭和56年卒)

 

p67-74

prologue

 私がホッケー部OB会会長を引き受けたのは、この駄文を書きたかったからなのかも知れません…

 もう35年以上も前のことなので、どうしても記憶が美しい方向に微修正されていますが、

 今書かないと、それすらも忘れてしまいそう(笑)

 

 

Ⅰ.昭和52年4月 京都市左京区北白川下池田町

 Welcome to the Hotel California ! ラジオからイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』の哀愁漂うメロディが流れてくる。とりあえず間借りした3畳の下宿で聞いていると切なさが込み上げ、無性に人恋しい。「大学に入ったら時間はある、スポーツをやろう!」と心には決めていた。じゃあ何を…  

 ゴールデンウィーク明けのある日、農学部グラウンド(以下農G)の東側、白川疎水横を歩いていたら眼下に棒を持ち極端に低い姿勢で相手のボールを取っている選手が目に入る(2回生のH高さんだった)「見たことないなぁ、でも面白そう。」悩んで1週間後、部室の扉を叩いた。ちょっと緊張しながら… 「入部させてください。」

 

 一般的に体から離れた位置でボールを扱うほど難しい球技になる。さらにホッケーは素手ではなく、スティックを使う。結構凹凸のある農Gで縦にもバウンドするボールを止めるのが、まず難しかった。止まってプレーするのが精一杯。走りながらパスを出す、受けるなんてとても無理無理。でもたまにクリーンなヒットが打てたりするのが嬉しく、15時過ぎのトンボかけが毎日のリズムになっていった。

 

Ⅱ.昭和52年7月 京都市左京区北白川仕伏町

 直線距離で400mの場所にリヤカーを借りて引っ越した。建物は結構古くて時折床が軋んだが、今度は6畳。大家さんは70代の大学教授の未亡人。下宿人は私一人だったので、洗濯機が無いのが困りもの。下宿から近い同期のM場の所でよく洗濯をさせてもらった。

 少しずつヒットもプッシュも強く出せるようになってきた。もともと体は柔らかかったので、タックルは好きで様になっていたと思う。春リーグでは一部に上がれなかったが、夏には大きなイベント七帝戦がある。合宿明けの夜、みんなでお酒を飲んで農Gで100m競争。場所を高野川と加茂川の中洲(今で言う鴨川デルタ)に移して宴は続き、「見つかったら内定が取り消されるかもしれへん。」と言いながら4回生のS須さんが川を渡る。

 翌日は祇園祭の山鉾巡行、二日酔いで新町通三条へ。ホッケー部員がアルバイトで『八幡山』の曳き手をし、バイト代を遠征費の一部に充てるというもの。装束に着替えてそろそろと歩く。巡行順は後ろの方なので、途中で何度も小休止。沿道から「白井君~」という声が聞こえたが、さすがに振り返れないよ!正味4時間ちょっとで3千円なにがし、歩いているだけだから楽なバイトではあるが、なんせ京都の夏は蒸し暑い。「お疲れさん」、でも振舞われたぬるいキリンビールには愛情が感じられず、残念だった。

 この年七帝の主管校は阪大。京都からでも十分行けるのに、何故か宝塚の宿舎から石橋に通った。宝塚は夜中真っ暗で鄙びた印象だったが、20数年後宙組公演を観に再訪した時、あまりの変貌ぶりに驚いた記憶がある。1回生主体でジュニア戦があったと思うが、悲しいほど全く覚えていない。

 

Ⅲ.昭和52年秋 農G(京都市左京区北白川西町)

  新チームの主将はフォワードNさん。バックスはS見さんが束ね、2人の綱引きで私はバックスに。「いいなぁFWは。シュート何本かで1点入れればいいもんなぁ。その点BKは失敗が許されへんし。」この頃は主に左バックの練習をしていた。今と違いFWの攻撃は基本右から、だったので、一番守備の負担が大きなポジション。しっかり走りそれが貯金となった。練習後には同期とよく『餃子の王将』(現在の百万遍交差点の店舗ではなく、当時は山中越えと今出川通の交差点の南側にあった)に行った。

 店員さんがレジ(あったのかなぁ)打ちをよく間違えて少な目に請求するので、みんながこぞって支払い役をやりたがった。たまに「にいちゃん。間違って作ってまったから、食べてよ。」と臨時の差し入れがあったりもした。若いからいくらでもお腹に入ったもんね、ありがとう!でした。大卒の初任給が11万円台の時代、「給料20万は超えるけど欠勤1日で5万引かれる」とも言ってました。古き佳き?昭和のお話

 

  *昭和52年 主要戦績*

      ◇関西学生春季リーグ(2部)  2勝2敗1分  4位

      ◇七帝戦            2勝1敗1分 3位

(国立8大学戦)        3勝2敗2分  4位

      ◇関西学生秋季リーグ(2部)  4勝1敗    2位

        入替戦 京大 3 – 2 大体大  1部復帰

 

Ⅳ.昭和53年春 宇治市五ヶ庄 京大宇治キャンパス

 「今年は1回生が沢山入ったから将来が楽しみだ。1部にも上がることだし、せっかくだから古澤先生にしっかり鍛えてもらいなさい。」と部長である国友先生の鶴の一声で宇治での合宿が決まった。

 古澤、Who?  何もない所でホッケーだけの生活(退屈しのぎがホッケーだったりして?)。フィールドは全面あるし、グラウンドも平らに近く、練習環境としては恵まれていた。でも肝心の練習はと言えば、来る日も来る日も古澤先生の「棒出せ!棒!」の掛け声。今思えば「BKはFWが呆れ、嫌がるくらいしつこくなきゃダメ!」という思想を体に覚え込ませることが目標だったのだろう。おかげ様で、今でも守りに回った時には、私結構しつこいよん!

 4月からは学部の友人K島の紹介で三条京阪まで家庭教師に出向くようになった。お相手は高校2年の上野新子ちゃん。「先生と初めて会った時、この人日本語喋れるのかしらって心配したよ~。」色黒かったしね。(今でも、か?)新子ちゃんはエスカレーターで成安女子大に行くそうで「進級できればいいから」とのこと。グラマーな女の子が冬以外はタンクトップとショートパンツで目のやり場には相当困った。(もちろん、苦痛じゃなかったけど…)勉強を教えた覚えはほとんどなく、世間話と悩み相談に終始した2年間でした。

 

Ⅴ.昭和53年7月 福岡市中央区六本松 九大六本松キャンパス

 「もう少し近かったら応援に行くのにねぇ。」と山口県のお袋さんが言ってくれて嬉しかった。でも着いてみたら、やたら砂埃の多いグラウンドだった。しかも昭和53-54年福岡市渇水の真っ只中で、給水制限が毎日続き、当然のように夜は寝苦しい。九大の生協食堂には我々の夏の主食である2個30円の冷凍ミカンも置いてなかったし…。暑さと渇きだけが妙に記憶に残る七帝戦だった。

 試合の日程が終わり、同期のY木、O石(残念ながら故人)と南九州を回った。宮崎市内で宮崎交通の観光バスに乗った時、バスガイドの松田さんは、その日が研修終了後のガイドデビューだったらしく、「私も記念に買っておこうかしら」と集合写真を予約していたのが微笑ましかった。それから4年後に、お得意先の慰安旅行で宮崎を再訪した時には、彼女は後輩のバスガイドを指導する立場になっていたが、まさか再会するとはね。世の中って本当に狭いですわ。

 

Ⅵ.昭和53年秋 農G

  3回生が3名しかいなかったため、新チームになって少しずつ試合での出番が増えてきた。技術的には自分でもまだまだ物足りなさを感じていたが、走力だけは既にチーム随一のレベルになっていた。以前にも一度書いたが、雨天時の曼殊院までのランニングは最初の一度だけゴール地点がよく分からず2着となったが、以後は卒業までトップを譲らなかった。

 この頃私の音楽の嗜好形成に2人のホッケー部員から多大な影響を受けた。1年上回生のI上さんからはJazz、同期のO戸からはClassical Music。しかし、チャールズ・ミンガスやエリック・ドルフィーから入ったジャズラバーやブルックナーやマーラーから聞き始めたクラシック愛好家って、ほとんど聞いたことが無いんですけど…。おかげで我が家は今LP800枚、CD300枚に占拠され、「サトたんが買うたんじゃあねぇ~」と引越しの度に嫁さんからお小言を頂戴しております。

 

  *昭和53年 主要戦績*

      ◇関西学生春季リーグ(1部)   2勝4敗    5位

        入替戦 京大 2 – 3 中京大   2部降格

      ◇七帝戦             1勝2敗1分 4位

(国立8大学戦)        3勝3敗1分 6位

      ◇関西学生秋季リーグ(2部)   2勝2敗1分  2位

        入替戦 京大 2 – 3 阪大

 

Ⅶ.昭和54年春 京都市左京区一乗寺塚本町

 今回はレンタカーを借りて同期のF戸の運転でお引越し。大家さんはまたまた50代の大学教授の未亡人だが、すごくさばけた人。北向きの部屋だったが、明るく快適で居心地が良く(当時まだ1店舗だった麻薬ラーメン『天下一品』も至近)、結局卒業した後、就職の赴任先決定時までお世話になった。

 ホッケーの方はこの春からFWに上がり、左インサイドを任された。右から流れて来るボールをシュートに変えてゴールネットを揺らす、いわゆる点取り屋のポジション。FWの先輩である同期のF井(彼も故人になってしまった…)は、いつも右から綺麗な球筋でパスを流してくれた。

 だが私はもともと「粋」にあこがれる淡白な輩。点取り屋の重要な資質のひとつ「ゴール前で泥臭く体を張り続ける」ことがなかなかできなかった。技術が劣るのに(無駄な動きが無く華麗な)元ACミランのパトのようなプレーをしていたような記憶がある。ゴン中山みたいなラッシュを、もっとかけなきゃいけなかったのに、ね。

 この頃一度だけクラブを辞めようと思ったことがある。練習方法についての不満が原因だった。ショートコーナーのヒッターは1回上の主将N谷さん。熱心なのは分かるが、打ち始めたら30分近く止まらない。私はストッパーだからまだ適度な仕事だが、暇にしているサークル周辺のFWや、逆に酷使されるBK(特にダッシュを繰り返す1番・2番の守り)は不満タラタラ。とうとう「俺行ってくるわ」と、練習後に一人でN谷さんの下宿を訪ねた。突然の来訪に驚かれたが、コーヒーを入れてもらい雑談。さすがに「このままだと辞めますわ」とは言わなかったが、「ショーコー(≠麻原彰晃)練習、もう少し短くなりませんか?」とお願いした。「そうか」、その後時折元に戻りはしたが、概ね短くなって事件は収束した。

 

Ⅷ.昭和54年7月 東京

 「やっぱお金が足りませんわ。東京でOB回りをしてきます。」京大が主管校の七帝戦が1週間後に始まろうとしていた。主務(当時は会計も兼務)をしていた私は、どう考えても現金がショートする予測が現実にならぬよう、合宿を抜けて一人東京に向かった。直前に発生した日本坂トンネルの火災事故のため、往路は夜行バスが使えず仕方なく新幹線で上京。その代わりに宿代を浮かせるため、高校時代の同級生のサカの下宿に転がり込んだ。彼はこれが同じ大学生なのかと思う位手際が良く、ジョルダンが無い時代のルート指南はもとより、私と背格好が同じお兄さんのスーツまで貸してもらった。

 期間は2日間。アポを取りながら訪問件数を稼ぐ。「あいにく副社長(新日鐵)はアメリカに出張しており不在です。」という回答もあったが、皆さん概ね在席されており、お昼までご馳走になった。富士銀行で受付の綺麗なお姉さまを見て、「ここなら就職してもいいなぁ。」とお気楽な事を考える余裕もあった。なかには「次の訪問先まで乗って行きなさい。」と運転手付きの社用車を出していただいたOBの方もおられた。学生の分際で乗用車の後部座席に一人で座るのはさすがに肩身が狭かったが、初めての首都高ドライブの景色は眩しかった。こうして東京発大垣行き普通の夜行電車(乗り鉄用語で「垣ドン」と言うんだって)に乗り込み、京都へ戻った。10万円を超える浄財を懐にして…。

 

Ⅸ.昭和54年7月 農G

 「いやぁ~、意外と面白かったわよ。あなた鉢巻して頑張ってたし…。」国友先生から「怪我をするから、絶対に待機してもらいなさい」と言われ、京大付属病院の看護婦さんに、試合中テント内に詰めてもらうよう、お願いにあがった。当初は、そこまでする必要あるの、みたいな冷ややかな反応だったが、冒頭の感想を引き出せ、ようやく肩の荷が下りた。

 初戦、U山が絶好のゴッツァンシュートを外して勝ちを逃すという幸先の悪い滑り出しとなったが、盆地の京都の酷暑が他校の体力を徐々に奪っていく。私は左のインサイドとしてよりもショートコーナーのストッパーとして活躍した。整地は毎日するものの、サークル内でも結構デコボコの箇所が残るため、バウンドしたボールを空中で一度キャッチしてから真下に下ろして置く、という高度なテクニック?を駆使した。「何であんなに止まるの?」とよく聞かれたが、「いつもここで練習しているから。」としか答えようがなかった。京大は少しずつ勝ち星を増やしてジリジリと追い上げ、最終的に旧5帝大(京大・北大・東大・阪大・九大)中の首位を獲得。地元開催の面目を保った。

 

Ⅹ.昭和54年11月 東京

 「あかん、恭介はチャンスに弱いんや。」と近鉄、佐々木の三振を見たM場のボヤキ。2球後にはスクイズ失敗で悲鳴に変わり、さらに2球で劇的な幕切れ。後年『江夏の21球』と名付けられた名勝負を遠征先の宿舎でテレビ観戦できたのは、ちょっとだけ頑張ったご褒美だったのかも知れない…。

 チームはインカレに出場していた。予選の1、2回戦は慶應の日吉グラウンド。テニスのクレーコートのような上質な土。「ここで練習しているから豊田章男さんは上手くなったのかぁ?」と勝手な想像をする。綺麗なヒットが出せ、ストップも容易。オープン攻撃がピタリとはまり武蔵大・成城大に勝ち、予選を抜けた。京大はダークホース的な扱いを受け、ベスト8に駒を進めた。

 決勝トーナメントは早稲田の東伏見グラウンド。真っ黒な土を見て「これが中学生の時に習った関東ローム層なんだ。」と妙な感動をする。だが、試合はあいにくの雨。粘土質の土が意外に重く、ボールも走らない。もとより東農大とは実力差があったが、悪コンディションがその差をさらに広げた。後半はボールをほぼ支配され、タイムアップ。ベスト8に残ったことで既に満足した気の緩みは確かにあった。闘う前から気持ちで負けていたのかもしれないが、不完全燃焼で後味の悪い敗戦となった。

 

  *昭和54年 主要戦績*

      ◇関西学生春季リーグ(2部)  2勝1敗2分 2位

        入替戦 京大 6– 0 関大   1部復帰

      ◇七帝戦            3勝1敗   1位

(国立8大学戦)       3勝2敗2分 3位

      ◇関西学生秋季リーグ(1部)  0勝7敗    7位  2部降格

      ◇全日本学生選手権       2勝1敗   ベスト8

 

ⅩⅠ.昭和55年2月 北海道川上郡弟子屈町 屈斜路湖畔

 4回生になる年のお正月「去年行ったんよ。冬の北海道は良かったぁ~。」と紅茶(オチャケだった?)を出してくれながらあっちゃんが言う。高校の同級生の彼女は1回生の夏に東京から帰省する際、祇園祭を見に京都で途中下車して沿道から声をかけてくれた。あまり楽しげに話をしてくれるので、ミーハーの私はすっかり洗脳されて勝手に小林旭になっていた。練習のオフに、北へ!一人旅。

 22時30分京都発の『急行きたぐに』は翌日の夕方青森に到着。0時30分青森発の青函連絡船を待つ間に観た映画は高倉健と吉永小百合が初共演した『動乱』。今度は健さんになって海を渡った。

 道中の楽しく懐かしい思い出は数々あるけれど、中でも極めつけは屈斜路湖の展望台でロングヘアの女性に出会ったこと、かな。

 次のバスを待つ間、私は展望台から近くに見えた藻琴山に近づこうと、腰まで雪に埋もれながら歩いていた。上空からスクランブル訓練中の自衛隊機が急降下する。15分進んで自分の見通しの甘さに気づき、ほうほうの体で引き返した時に、目の前に厳寒の北海道では見たことがないスカートをはいた女性が立っていた。「それなら私が荷物を見ておいてあげればよかったですねぇ。」親切な人だと思った。聞けば、大分から大学の卒業旅行で鎌倉に行ったけれど、途中からどうしても北海道にも行きたくなり、そのまま足を延ばしたらしい。一人で、度胸あるよねぇ。この呑気な私ですら防寒仕様で来ましたよ。

 スカイブルーとキャメルのスカート以外は一面の銀世界。そうか、あと1年で俺も卒業なんだ。勉強は無理でもホッケーはもう少し上手くなりたいなぁ、雪に埋もれた湖面を眺めながらしみじみそう思った。

 

XⅡ.昭和55年春 農G

 立命館高校のエースが京大を受験するというので、センターハーフのポジションを空けて入部を楽しみに待っていた。ところが直前で回避しそのまま立命館大学に行ったので、私が後釜に座ることになった。BK→FW→BKと私の気持ちとは裏腹にユーティリティープレイヤーになっていく。だが試合の流れを方向付ける大事な要のポジション、文句を言っちゃあいけません。

 ストップを確実にし、速いヒットが打てるよう、スティックは19オンスの軽めから20オンスの重めに買い換えた。BKに戻ったので、相手のショートコーナー時にフォアでダッシュする1番の守りも加わったが、「それくらい当然やろ」最上回生ゆえのプライドでクリアーした。

 ショートコーナーのストッパーは続けた。ヒッターはT尾。重めのスティックを軽く振り下ろすと、綺麗な軌道のシュートが伸びていった。ただ、試合になると「点を入れなきゃ。」という責任感が前面に出過ぎ、時折力んで芯を外すことがあった。

 卒業したひとつ上回生は人数こそ3人と少なかったが、N谷さん(FW)、H高さん(BK)、I上さん(GK)は各々のパートで十分責任を果たしていた。「ちょっと駒不足やなぁ」という不安を抱えながら春のリーグ戦を迎えた。

 中京大戦こそ4点を取り快勝したが、残りは3試合が1点止まりと爆発力に欠けた。守りが崩れた同大戦、和大戦は大敗して3位に沈む。入替戦にも敗れ、卒業するまで1部で戦う機会は無くなった。

 

ⅩⅢ.昭和55年6月 山口県宇部市寺の前町

 「あんまり熱心に生徒と一緒に走っていたから、てっきり体育教師を目指しているのかと思ったよ。」と母校の校長先生に言われた。そう、高等学校の教員免許を取るための教育実習で、残念ながらホッケー部がないため、放課後は陸上部に顔を出していたのです。

 夢を見ているような2週間だった。いちおう世界史を教えたが、クラスのホームルームには私以外にもう一人、みっちゃんがいて毎日が楽しかった。美人で頭がいいのに気さくで、おしとやかなのに芯のしっかりしたお嬢さん。

 命短し恋せよ乙女。私は野郎だったけど、恋する資格はあったんだよね?

 

ⅩⅣ.昭和55年6月 農G

 4年間で唯一、だが重症の怪我をした。練習中にBKを素早く完全に抜き去った際、タックルに来た相手のスティックがそのまま流れて、私の左足アキレス腱を痛打した。足首がグネッと内側に入り、全体重がかかった。激痛は少しずつ収まったが、痛みが完全に取れるまで3週間を要した。貧乏学生の私にはレントゲンを撮ってもらうという発想はなく、その間左足首をテーピングで固定し、騙し騙しで練習に出た。(8年半後、交換留学生として三和銀行に1年間派遣されていた時、左足首にトゲが刺さったような痛みが出始めた。実はこの時に足首の関節部を剥離骨折しており、時間の経過と共にその箇所が変な形でくっついたようなのだ。結局入院して関節部を開き、骨を削るという手術をした。)

 我々の学年は人数が多く、14人入部して11人が残った。そのあおりを受け、1学年下は2人の入部に留まり、2人共2回生の終了を待たずに退部した。最後の七帝戦、足はなんとかゴマカシがきき、主将のF井にも出場を懇願されたが、後述する進路変更のモヤモヤで闘争心が沸き上がらず、断った。F井は1~2回生主体のチームを率いて大会に臨んだが、経験不足はいかんともしがたく、失意の日々が続いた。5敗2分の8位、今でも申し訳ないことをしたと思っている。

 

ⅩⅤ.昭和55年10月 大阪市北区堂島

 「君はホッケーばっかりやっていたと言う割には、結構成績いいじゃないの。」「まぁ、帳尻を合わせただけですけど…。」「君ねぇ、会社で帳尻を合わせてもらったら困るよ。」「は、はい!」レンブラントの絵画のような鈍い光を放つ重厚なしつらえの役員室で、いじられはしたものの、就職の内定をもらえた。

 不思議な就活だった。私の親父は学究肌、お袋と一緒になりたくて(彼女に相談もせず)大学院進学を止め高校教師になった。私はもともと教員志望だったが、親父が(向き不向きとは関係なく)自分の経験からやんわりと難色を示すので、消去法で企業への就職に切り替えた(当時の私はまだ無垢で、余程のことが無ければ、父親にはほとんど反発しなかった。ちなみにお袋さんとは生まれてからお互いに口答えをしたりされたりしたことが一度も無い関係が続いている、本当に幸せ!)。

 はなから金融・商社には興味がなく、自分の好きなものを作るメーカー等を受け散らかした。音楽『ビクター』、写真『キャノン』、レジャー『ヤマハ』など…。サントリーもお酒が好きで「口に入る物を作っているから、まあ潰れることはないだろう。」くらいの軽い動機。思慮不足もはなはだしいね。

 7月に入っても動かなかった私を心配して同期のK田の友人H沢が「どこに行きたいんや。俺が見ているから電話(公衆から)をかけろ。」と言ってくれ、ようやくエンジンが始動した。

 就活中に心優しい彼女(=今の嫁さん)は、「手紙が途切れない方法を聞いたからやってみるね。1通書いて、返事が来る前にもう1通出すの。忙しかったら返事はいらないからね!」と言って、よく手紙をくれた。今で言う遠距離恋愛の期間が長かったから、結婚するまでの7年半で200通を超える往復書簡が残っており、今も家のどこかでクッキーのカンカンにでも入って眠っている。さすがにこっぱずかしいので、家捜ししてまで読み返そうとは思わないが、万が一1歳年下の佳世さんが先に他界したら、きっと読むんだろうなぁ…。

 

  *昭和55年 主要戦績*

      ◇関西学生春季リーグ(2部)  2勝2敗1分 3位

        入替戦 京大 0– 2 京産大

      ◇七帝戦            2敗2分   5位

(国立8大学戦)              5敗2分     8位

      ◇関西学生秋季リーグ(2部)  2勝3敗   4位

        入替戦 京大 5– 1 大市大

 

ⅩⅥ.昭和56年1月 京都市左京区吉田本町

 「今年はどうされます?」大学院受験の浪人生にまでわざわざ電話をかけるんだ!こんなに親切な国立大学の事務方は京都大学教育学部以外にはあり得ないでしょう!そういう私も刻限を30分オーバーして卒論を提出したが、厭味も言われずに受理してもらえました。

 お祭りだった。卒論の提出期限を翌日に控えた前日の夕方から有志が学部の教室に集まり、各々徹夜で論文の仕上げをした。とは言え、ダベリながらなので当然効率は落ちる。睡魔に襲われないように、誰かが歌い始めた(何故か『雨の御堂筋』)。恐怖映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンを演じる奴。黒板にピカソの『ゲルニカ』を模倣したヘルニカを描くO川。提出日の午後が胸突き八丁、なんとか清書を終えたが、達成感よりも疲労感の方が勝っていた。当然のような顔をしてみんなで飲みに行く、そしてこの日も徹夜。飲みながら微睡み、覚醒してはまた飲む、の繰り返し。下宿に帰ったのは翌朝の6時、夕方4時まで昏睡した。しかし、よくこんなアホなことが出来たもんだ。みんな若かったねぇ。

 

ⅩⅦ.昭和56年3月 京都市左京区一乗寺塚本町

 名優ロバート・デ・ニーロがその役作りのために27㎏増量した際「7~8㎏までは天国、後は地獄だった」と語った『レイジング・ブル』。まだ映画の余韻が残っている翌日に下宿の荷物整理をした。

奇特にも、自動車教習所で再会した高校の同級生、立命館に通っているアキコさんが手伝ってくれた。

 甲斐甲斐しく荷造りをする彼女を見ていたら、結婚したら嫁さんってこんな風にそばで働いてくれるんだろうなぁ、といとおしく感じた。晩ご飯を一緒に食べに行って別れたけれど、今考えたらメッチャ! 無粋。できることならもう一度しっかりお礼を言いたい、と今でも心から思っている。

 映画のテーマ曲である『カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲』(ピエトロ・マスカーニ作曲)の美しい旋律は現在私が住んでいる茨木市の中央図書館のオルゴールが奏でてくれる。みずみずしいのにリリカルな調べを聴くたびに遠い冬の日を想いだし、気持ちを新たにする。「僕の告別式が始まる前には、必ずこの曲を流してもらおう。」と

 

終章.平成28年6月 大阪府高槻市富田町

 たまに立ち寄る『王将摂津富田店』。カウンターの向こうに川崎さんがいる。彼女は接客をしていない時は黙々と、かつ精密機械のような正確さで4.5秒に1個のペースで餃子を包み続ける。昨年「もう38年間王将に通い続けているよ。」と話したら「私の生まれる随分前からですね、大先輩なんですねぇ。」と驚かれた。今年初めに「間違えて作っちゃいました。食べていただけます?お代はいりませんから…」と餃子を3個差し出された時は、一瞬学生時代に戻ったような気がした。

 今思えば、私の最適なポジションは、5-3-2のフォーメーションであれば、ラストパスを出すFWの右インサイドだったろう。しかしBK経由でFWに上がってきた時、そこには既にF井がいた。大学4回生の時は、167㎝56㎏の体に何とかあと2㎏筋肉をつけたかった。そうすれば重い21オンスのスティックを使っても、もっと自在に操れたと思うのだが、下宿生活の食事ではそれもかなわなかった。

 武田信玄の名言「一生懸命やれば知恵が出る。中途半端なら愚痴が出る。いい加減なら言い訳が出る。」愚痴や言い訳は出さなかったけれど、果たして知恵が出るほど私は一生懸命だったのだろうか?

 どうしても現役時代のやり残し感は拭い切れない。もう1度生まれ変わったら、遅くとも高校生までにはホッケーを始めたいと思う。基礎から確実に積み上げますので、その時は生まれ変わった杉浦先生、ご指導よろしくお願いいたします!さまよえるインド人もきっと成仏すると思います。

 

epilogue

 「今日と明日が出会う時、クロス・オーバー・イレブン…」優しい大家さんの許可を得て、下宿の2階の屋根に登り、FMのアンテナを取り付けた。音楽は私の心を豊かにしてくれたが、日曜日の黄昏時は何故か寂しくて仕方がないことがまれにあった。「木へんにホワイト、柏村武昭」のキャッチフレーズが元気過ぎて鬱陶しかったからではなく、テレビがなくて「レッツゴーヤング」が見られなかったからでもなかった。そう、その日はホッケーの練習がOff !

 構われたくはないのに、放っておかれると寂しがる厄介な奴(=私)にとって、ホッケー部の仲間との距離感は心地良かったのだと思う。あれから35年、既に2人の同期が鬼籍に入ってしまったが、苦しい練習の合間に見上げた大文字山の佇まいは、今でもしっかりと脳裏に焼きついている。

 

(この駄文を中学・高校・大学の同級生である梅園和彦に捧ぐ! 頭脳流出になるのを防ぐために38歳で京大の教授に招聘された彼は40歳で夭逝した。学生時代、北白川上池田町に下宿していた彼からは

「珈琲はブラックで飲むべし」と教示され、いまだに私はしっかりとそのアドバイスを守っている。)