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2年間主将を務めた二人 ~継続することの大切さ~

白須 正(昭和53年卒業)

昭和55年~61年・平成10年~12年監督

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 最近は、すっかりホッケー部、そしてホッケーから縁遠くなってしまいましたが、昭和49年4月に大学に入学、5月にホッケー部に入部以来、ホッケーは私の人生の中で最も大きな位置を占めていたといっても過言ではありません。

 就職を控えた4回生の秋、春のリーグ戦でまさかの2部残留になってしまったこともあり(秋のリーグ戦で1部復帰を決めました)、卒業後もホッケーを続けたいと考えました。ほとんど就職活動をしていなかった私ですが、就職活動解禁前の9月、当時、大手企業で唯一ホッケー部があった三菱化成(京大ホッケー部OBである浅田裕美先輩が創部されました)に行き、東大ホッケー部OBの方にお会いしました。今思えば当たり前のこと、石油化学の重要性は説明されましたが、ホッケーの話が話題にならず、勧誘もなかったので三菱化成はあきらめました。

 結果的に京都市役所に入庁したのですが、おかげで卒業後も平日や土曜日の勤務終了後によく農学部グラウンドで練習に参加しました。監督の太田先生が京都を離れられたこともあり、昭和55年から61年まで監督に就任、平成10年から12年にも再度監督に就任しました。両期間とも、選手と一緒に練習に参加していたので、今でも当時のことが鮮明に思い出されます。こうした記念誌では、通常、活躍した時代が取り上げられますが、今回は、ホッケー部が休部、廃部の危機に見舞われた時に、2年間にわたり主将を務めてくれた(務めざるを得なかった)二人のことを中心に紹介したいと思います。

 一人目は昭和58年に卒業した沢村直君です。沢村君は、東京教育大付属高校でホッケーの経験があり、昭和54年の入部です。昭和54年は春のリーグで1部復帰を決め、インカレではベスト8に進出するなど相当レベルも高かったのですが、昭和56年3月に4回生が卒業すると、沢村君の1年上の部員がゼロだったため、3回生の沢村君が主将に就任することになりました(当時の主将の任期は3回生の秋から4回生の春まででした)。部員不足で、入部したばかりの1回生も2名出場した春のリーグでは2部最下位でクラブ史上初めて3部に降格、8大戦も6敗1引分で最下位でした。昭和57年春のリーグ戦も1次リーグでは1勝4敗と苦戦続きでしたが、沢村君の統率力と下級生が試合で力をつけてきたこともあり、2次リーグ(3部下位リーグ)では3勝0敗と復調の兆しを見せ、沢村君の最後の出場となる秋のリーグ戦では5戦全勝で2部復帰を決めることができました。これには、1学年下の一色君の存在も大きかったといえます。今、京大ホッケー部最大の経験者供給源が星光学院高校ですが、彼が初めての星光ホッケー部OBで、沢村君の後の主将を引き継ぎ、現在のような印刷されたOB会誌を創刊したのも彼です。

 二人目は平成11年に卒業した武元俊彦君です。私は平成4年頃から体調の問題もありクラブから遠ざかっていたのですが、平成8年に迎える70周年事業への協力について大東先生や野間さんから依頼があり、久し振りにクラブに顔を出すと、春のリーグ戦を最後に4回生が引退し、3回生3人、2回生3人、1回生5人しかいないという大変な状況になっていました。これはまずいと、私も秋のリーグ戦は何試合か見に行き、たまには練習にも参加しましたが、秋のリーグ戦は3部で全敗、何とか入替戦は4回生も出てくれ勝ちました。平成9年の春のリーグ戦が始まる前の3月、今でも忘れられないのは、土曜日に私が練習に行った時、新3回生が武元君を入れて2人(一人はその後退部)、新2回生は全員辞めており、練習しているのは私を含めてわずか5人でした。春のリーグ戦は棄権するしかないと思っていたら、リーグ戦の規程が卒業して2年間は出場できることになっており、OBや途中で退部したメンバーにも助っ人で出てもらい、何とか棄権は免れましたが最下位、入替戦でも敗れ、遂に4部に降格となりました。幸い、1回生がたくさん入ってくれたので、何とか人数は足りるようになりましたが、ここから長い4部時代が続きます。私は翌年、平成10年から再度監督に復帰しましたが、平成12年の春のリーグ戦で優勝、入替戦で勝利し3部復帰、秋のリーグ戦でも優勝、入替戦勝利で2部復帰を決めるまで、4部を脱出するために3年間かかりました。4部のリーグ戦を見るため、名古屋の庄内緑地公園や松山大学に行ったことも今では懐かしい思い出です。

 当時のことを思うと、今は部員数も多く活気を呈し、隔世の感がありますが、大学のクラブというのは駅伝のようなものだとつくづく思います。私の知る範囲でも7大学戦で交流した鹿児島大学や九州大学のホッケー部は廃部になっています。一度活動が途切れると、その復活は容易ではありません。クラブ活動の歴史を振り返る時、どうしても強い時代、華やかな時代がクローズアップされます。しかし、こうした苦しい時期があったこと、そして当時の主将や部員が何とかクラブを守ってくれた結果、今日があるということを決して忘れてはなりません。

 京大ホッケー部が、今回の90周年という節目を契機にさらに飛躍し、100周年、そしてその後も継続、発展していくことを願ってやみません。