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人生の大事なもの

小槻 節(昭和47年卒)

p60

 私は1回生の夏が過ぎてからホッケー部に入部しました。入部即日から練習に参加させられ、まずスティックの持ち方を教えられ、ボールにはさわらないですぐにランニングに加わりました。足が速いという印象を持たれたのか、部員数がぎりぎりという事情もあってか2回生の春にはレフトウイング11番でレギュラーメンバーとして試合に出してもらえました。高校の時からホッケーをしていた経験者に比べ、大学に入ってからホッケーを始めた大多数の一人として、テクニックは見劣りがするのは当然なので、スピード(特にサークルトップ)と走り負けないスタミナを強くするよう心掛けて練習しました。練習の仕上げにフォワードとバックで行うフォーメーション練習は、ラスト1本の声がかかってから、満足いくプレーが出来るまで結構長く続くので、結局かなりの数をこなしてから終了。最後のグラウンド1周ランニングと体操が終了すると、とにかくやっと終わった、疲れた~、としばらくグラウンドに座り込んで、という感じを懐かしく思い出します。家に帰るとまずは休息、とにかくじっとして体を休める、9時か10時ころ晩飯、といったことがしばしばありました。体が練習についていけないので、休息を必要としていたのだと思います。いつだったか夏合宿で、あまりにも体の疲労がとれず、午後の練習に参加できないと申し出て、スポーツ会館で練習最後のグラウンド一周の声を聞きながらせんべいぶとんの上で、足を何かの上に乗せながら(こうすると足の疲れがとれるような気がしました)横になっていました。いまでも真夏の農学部グラウンドの暑い(熱いの方が近い)地面を練習中に見て、気合を入れなおしてまたドリブルを始めるということも思い出します。私の現役時代は関西リーグ2部で優勝争いする力があり、4回生の春季リーグで優勝、入替え戦で関学に勝利して1部へ昇格、秋季リーグ戦は念願の1部で試合することが出来ました。

 ホッケー部の活動は実質3年程度で、その後の人生を考えるとわずかな時間でしたが、社会人になってからも仕事関係の付き合いとは別に、ホッケー部の同期の者が集まる機会が多く持てました。特に40歳代後半を過ぎて、それぞれが転勤先から戻ってきて東京勤務の時がもっとも集まりやすい時期でした。定年退職し、今は時間に余裕ができたのでさらに集まりやすい状況となりました。

 人生のほんの一時期ですが、厳しい練習に共についていったこと、そして試合で悔しい結果に終わったことも多かったのですが、本当にうれしい喜びの時もともに味わうことができたという、同じ時期に同じ気持ちを持てた仲間として、今も付き合いが続いています。久しぶりに会うことで現在の自分の生活もまた新たに刺激をうけることが多いです。ホッケーを通じて得られた友を人生の大事なものとして大切にしていきたいと思います。