萩森 健治(昭和44年卒)
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創部90周年と女子部の創部おめでとうございます。実行委員の皆様、ありがとうございました。記念式典とOB戦に参加し、先輩の方々や後輩諸君と久しぶりに歓談できて本当に楽しい一日でした。
昭和40年、私は中学・高校の親友に誘われて渋々ホッケー部に入部しました。6月の合宿が厳しすぎて早々に辞めるつもりでしたが、それが半世紀もホッケーと係り続けることになるとは思いもよりませんでした。懐かしい思い出を少しふりかえってみます。
入部当時は、大東、北尾、奥島先輩など昭和41年卒組の名選手が10名もいて関西1部リーグ4位、七帝戦全勝優勝の強豪チームでした。有力選手が卒業した2回生時は惨敗の連続で、1部最下位、2部降格、2部最下位転落(当時は2部まで)。公式戦で初めて得点したときは涙があふれました。OBの厳しい指導のおかげで徐々に強くなり、4回生の秋リーグで5シーズンぶりに1部に復帰し後輩に引継ぐことができました。
大学院に進学した44年は大学紛争と全学封鎖で半年以上講義がなく、現役諸君と一緒によく練習しました。才能豊かで練習熱心な部員が多くいて急速に強くなりました。
中堅ゼネコンに入社後、6年間の現場勤務時代はホッケーとは無縁でした。30歳で内勤技術部門に異動してから楽友クラブに参加するようになり、若手OBの足手まといになりながら試合を楽しみました。60周年のOB戦にも出場しています。この間は、職場仲間とサッカーやテニス、義弟のラグビーチームの助人、娘の小学校のPTAでバドミントンなど毎週末はスポーツ三昧の体育会系でした。ところが、体力を過信したのか老化の前兆か、48歳のときテニスでアキレス腱を断裂し、3か月後に再度断裂。延べ4か月間会社を休むはめに。ショックで落ち込み、リハビリ中の2年間はさすがにおとなしくしていました。70周年(50歳)を迎え、両足首を入念にテーピングして臨んだOB戦ではタッチシュートで3年ぶりに得点。復帰できたことと久々の得点がよほどうれしかったのでしょう、70周年記念誌で自慢しています。
80周年(60歳)は残念ながら参加できませんでした。健康だけには自信がありましたが、胸腺腫瘍で手術入院し、退院後に自宅療養していたからです。
90周年までの10年間はいろいろありました。2008年2月末に定年退職し徳島での田舎生活が始まりましたが、サンデー毎日ですることがない、友達がいない、4月~5月頃はうつ病になりそうでした。手当たり次第に地元のサークルに顔を出したり、ODA民間モニターでアフリカのケニアに行ったり、職業訓練校に半年間通ったりなどしました。吉野川市国際交流協会や遍路道を清掃するグループに入会し、ボランティア活動や飲み会などに参加するようになってようやく地元に居場所が見つかりました。今は、外国人技能実習生や小・中学生への日本語指導、阿波踊りやバスツアーでの外国人との交流、65歳から始めた長唄三味線の稽古などで充実した第二の人生を過ごしています。
また、ホッケー部OB会では理事として微力ながら現役諸君の応援をさせていただいており、昨年末の女子部の初勝利にも立会えてラッキーでした。
唯一の試練は、長女が2009年10月に脳腫瘍を発症し、国立がんセンター中央病院や阪大病院で治療を受けながら闘病しておりましたが、2016年4月に41歳で他界したことです。闘病中から長女家族のサポートを行ってきましたが、今も妻と交代で大阪にいる小学2年の孫のサポートを続けています。孫が京大ホッケー部に入部するのを夢見てこれからも元気で頑張り、10年後の100周年(80歳)記念にも参加したいと思っています。できればOB戦も。その時は、またお爺さんと遊んでください。