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ホッケー半世紀の今昔

小山武夫(昭和38年卒)

p54-55

 京大ホッケー部は90年の歴史となった。私はその歴史の半世紀以上、57年間、ホッケーに関わっていることになる。入部当時は、ホッケーという競技があることも知らなかった。なにか運動がしたくて宇治から農学部グランドへ見学に行った日に、部室の前で勧誘された。

 当時、ホッケーはマイナーな競技であったが、それは今も変わらない。1962年のアジア大会と1964年のオリンピックが東京で開かれ、ホッケーという競技を知る機会が増えたが、多くの人はアジア大会でのインドとパキスタンの流血騒動の印象が強く、危険なスポーツであると頭に残っている程度であった。

 男子ホッケー日本代表は、東京とメキシコに連続出場した。次のミュンヘン大会にも出場の権利を獲得していたが、エントリーを忘れ、出場できなくなった。それ以後、男子はオリンピックに出場できていない。これもホッケー低迷の一因になっている。

女子は直近の3大会連続出場しており、ホッケーの普及に貢献している。我が京大ホッケー部も女子部ができたことは、画期的なことであり、“さくらジャパン”の効果があったものと思われる。

 半世紀前のホッケー人口は、2千から3千人と言われていた。現在の競技人口は約3万人といわれ、小学生年代以下の少年団を中心とした登録チーム数は全国で 89 チーム、中学生年代は部活動を中心として 123 チームあるという。競技人口のすそ野が広がったことは喜ばしいことであるが、未だに競技人口が人口の0.1%以下のマイナー競技の範囲である。

 スティックは、当時は2千円であった。現在は2万から4万円であり、価格も当時の10倍になっている。当時の大卒初任給が1万円強、現在が20万円程度を考えると、上昇率は同じである。

 当時のユニホームは、部が管理するレギュラー分しかなく、試合の度に、先輩の汗の浸みこんだユニホームが貸し出されていた。今は、セカンドジャージーも必要になり、部員の負担も大きいと思われる。

 グランドは土が当たり前であった。国際試合は芝であり、日本にも数少ない芝のグランドがあった。私は、服部緑地の芝で天理とやったのが唯一の芝の経験である。今は、私立大学の殆どのチームが人工芝のグランドを持ち、東大、京大のグランドも人工芝化された。人工芝は維持費が大変で、専用グランドを持つ東大は苦労していると聞く。

 グランドといえば、私が4回生の時に農学部グランドを追い出された。ラグビー部が中心となって、「ホッケーのボールで足を捻挫した。ボールは凶器である」として他の運動部全員一致で“追い出し”が可決された。それ以後、グランド確保に苦難な道が続いた。その苦境の中でも、S41年卒が黄金期を作ったのは立派である。

 競技のルールも大きく変わった。

オフサイドが無くなった。当時は、キーパー以外に相手の2人より前にいるとオフサイドであった

 写真は、東大戦で奥からフリーヒットをゴールした時のものである。残念ながらオフサイドでノーゴールであった。相手もかなり後方にいるところを見れば、オフサイドは明白であったのかもしれない。

 

 7帝戦は、私が4回生の時が第一回大会である。それまでは6大学戦として、京大、東大、北大、阪大、九大の5校に鹿児島大が加わっていた。2回生の時も北大が当番であり、北大に2回行ったことになる。7帝戦は目標の大会である。幸い、2回生の時に初優勝した。

 

1961年6大学初優勝当時のメンバー(於岐阜大)

 

 写真は、私が2回生の時、北大で優勝した頃のメンバーである。

 その時、北大の斡旋してくれた宿は陰気くさいお寺で、夕食を食べただけで、早々に北大前の旅館に移った。その旅館の主人は北大出で、“札幌の名が廃る”と大歓迎してくれた。優勝できたのも、そのおかげかもしれない。写真は、4回生4人、3回生6人、2回生3人である。

 

 リオオリンピックで、男女のホッケーを見る機会があったが、別の競技かと思えるほどプレーが変わってきている。

 男子決勝のアルジェンチンとオランダは、“上手い”の一言である。日本がこのレベルになるには、格段の努力が必要と思われる。

特にリバースでのドリブルは、私の時は天理の恩田(全日本女子監督など歴任、当時ホッケーで飯の食えた唯一の人)しかできなかったと思う。天理は恩田さんのおかげで、その後の黄金期を迎える。天理とは、親里競技場まではるばる出かけて12対ゼロで惨敗して、遠路をすごすごと帰ってきた苦い記憶がある。

 女子の“さくらジャパン”は、今回のリオでは残念な結果であった。相手にマークされても普段のプレーができる逞しさとプレーのスピード、技術を高める課題が残されている。

 私も一対一でピタッとマークされると弱かったが、日本の女子も外国選手に比べてそれを感じる。

相手のマークを外す技術と自信がなかったのである。

 50年前の東京オリンピックの男子ホッケーで2メートル手前からのハードヒットをバシッと止めたことに驚いたが、今回のリオでは、女子でも当たり前のプレーになっている。

また、女子はリバースヒットが多い。リバースは、マークし難いからであろうが、守備側からすれば危険を感じる。スティックは正確にコントロールできているのだろうか。

 今、ホッケーを振り返ってみると、よくあのような危険なスポーツをやっていたと思う。当時は、怪我が当たり前であった。特に関西はプレーが荒く、平気で足を狙ってくる。インターカレッジで大会会長が「関西は技術よりは闘志が先に出るので気を付けてほしい」と挨拶したぐらいである。

今は指導者もしっかりしており、危険対策は万全だと思うが、怪我の無いように練習段階から十分に注意して、ホッケーを楽しんでいただきたいと思う。

以上