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大学紛争後の熱い思い――ホッケー部強化の夢

東大ホッケー部OB

所澤 潤(昭和53年卒)

p49-53

 僕が東京大学ホッケー部に入部したのは1974年、東大紛争の数年後、東大ホッケー部が翌々年に創立五十周年を迎えようとしていた頃だった。その年は、七帝戦が東大主管で開かれ、会場となった東大検見川グランドで初めて京都大学の同期と知り合った。

 ちょうど僕たちは大学文化の変わり目にいたらしい。それは大学紛争と関わりのあることなのだが、それを背景に僕を含めて何人かがホッケー部の強化という夢をもった。

 入学した頃、1969年の入学試験中止は学生生活に大きな影響を残しており、東大の多くの運動部も惨憺たる状況で、ホッケー部もまた、弱体化したチームを立て直すために様々な手探りが行われていた。大学紛争とは、京大教授(刊行当時)の竹内洋氏が著書『学歴貴族の栄光と挫折』(1999年、中央公論社)で書かれたことに基づいてマクロな視点で解釈すると、旧制高校以来の学歴貴族的な文化が、大衆化し始めた大学の学生たちに敵意をもたれ、結果的に崩壊させられた出来事であったように読める(例えば321頁以下)。確かに、大学紛争後5年もして入学した僕たちは、政治的活動や自治的活動に対しての失望と白けたまなざしの中にあった。また僕自身は、旧制高校からかろうじて続いていた何か精神的なものが急速に衰退しつつあるような味気なさも感じていた。それらを、学歴貴族的なものの崩壊と形容することにはためらいを感じるが、京大教授もそのような学術書を一冊著したぐらいであるから、紛争の当事校か否かは別として、当事の京大生もまた同じ潮の変わり目にあって、東大ホッケー部員とも心情的に共通するものをもっていたのではないかと思う。

 当時は、大学生になると酒も解禁、七帝戦の前夜祭だったか、レセプションだったかで、東大の僕たちは1年生の出し物として猥歌を歌わされた。たしか2年の時だったと思う。京大同期の白須正君が京大1年生の出し物のふがいなさに立腹したためだったと思うが、猥歌を1人で振り付け付きでやってのけ、強烈な印象を東大の僕たちに残している。僕は卒業後も白須君とつきあいが続いたが、卒業して何年も経って、東大ホッケー部の同期の連中と話しているときに白須君の名前を出せば、「あの○○を歌ったやつだろう」と皆が思い出すほどである。最近は女子部員もいる時代なので、その猥歌の具体的な内容は敢えて書かない。

 付け加えると、九州大学の連中は、酒に酔うと、縦隊になって前の者の両肩に手を乗せ、妙なリズムでステップを踏みながら戯れ歌を歌って練り歩いていた。その数年後に、テレビで「電線に雀が三羽留まってた。それを猟師が・・・」と歌う電線音頭が流行ったが、それはなんだか妙に彼らの歌の節回しと踊りに似ていた。いや、同じものだったのかも知れない。

 そんな、なんとなく旧制高校のストームを思わせるような雰囲気を捉えてだろう、東京大学ホッケー部の大先輩の神崎倫一さんは、「旧制インターハイの雰囲気が七帝戦には今も残っている」、と卒業して何年か経った僕に話したことがある。東洋信託銀行に勤め、定年後は10年間ほどテレビに出演して日本の経済情勢を論じた方であるので、京大ホッケー部でも覚えている方は多いだろう。出世の道である転勤を一切断り、毎週土日には必ずホッケーグラウンドに姿を見せた。第五高等学校(いわゆる五高)から東大に進み、戦後ホッケーグラウンドに戻ったとき、俺はホッケーをやろうと心に決めたのだと僕に語ったことがある。そのストイックさは、まさに旧制高校文化の権化で、亡くなるまでそれを貫き通した。その神崎さんが愛した七帝戦の古風な文化が、今、継承されているのかどうか。大学3年にならなければ酒を飲んではいけない時代が来てしまったために、不安を感じている。

 旧制インターハイは、最近の学生にはなじみがなくなったかと思うが、僕たちの頃はまだ50代の先輩は皆旧制高校出身だったので身近だった。旧制高校ホッケーの全国大会であるインターハイが、東京帝国大学本郷の御殿下グラウンドと京都帝国大学のグラウンドとで毎年交互に開催されていた。そして、サッカーのインターハイもホッケーで使われない方のグラウンドを使って一年ごとに開催されていた。僕の頃の東大、京大のホッケー部員は、恐らく諸先輩からそうした旧制の時代の話を、機会ある毎に聞かされていたのではないだろうか。そんな話を聞きながら白須君も僕も、それぞれに触発されてホッケー部をもっと強くしたいと思うようになったようだ。

 東京帝大は、1936年に2部1位、入れ替え戦に勝って一部に昇格したが、そのあと40年に関東学生リーグで一部2位となり、42年、43年に一部3位だったという記録がある。(当時は高等専門学校や旧制高等学校も入って一つのリーグを作っていたので、おそらく今の関東大学リーグという呼称と違って学生リーグと言ったのではないかと思う。)それはまさにインターハイの成果であろう。インターハイは帝国大学のスポーツを強化するために開催されるようになった大会である。ホッケーやサッカーだけでなく多くの種目で開催され、ある意味旧制高校の風物詩のような存在であった。しかし、歴史的に見れば、昭和初年の旧制高校の赤化事件を背景に、警戒した文部省が昭和一桁の終わり頃から旧制高校へのスポーツ奨励を行い、その効果で、インターハイにどんどん熱がこもり、帝大の運動部の強化に結びついていったということらしい。僕たちが強化を夢見たのは、そうした雰囲気を先輩たちの中に感じたからであったのかも知れない。

 昭和10年代は文部省が帝大の運動部の強化もはかったものとみられる。僕たちが大学に入学した時はまだ、七帝戦の優勝盾として持ち回りの文部大臣盾(杯といっていたかも知れない)が残っていた。これは文部大臣から帝国大学ホッケー連盟に下付されたもので、当時見たプレートに書かれていた文字は、僕の記憶では1937年ではなかったかと思う。戦中に帝国大学ホッケーリーグがなくなり、戦後復活できずに文部大臣盾争奪の2大学間の対抗戦が行われていたが、やがて七大学総合体育大会のホッケーの優勝盾となった。ただ、往年の実力からするとかなり格落ちの大会になっていたように思う。

 そのようにして七帝戦に引き継がれていた盾なのだが、1974年に北海道大学が優勝して持ち帰り、あろうことか盗難に遭った。1975年に鹿児島大学を会場にして開催された時に、北大がお詫びに、と新品の大きな優勝杯を持って現れた。僕は、七帝戦が身内の大会のように感じられたこともあって、盾を大して重要な物とは思っていなかったが、今のように大学スポーツが企業化してくると、文部大臣盾争奪と銘打てば、七帝戦ももっと重要な大会として活力をもったかも知れない。まさに旧帝大ホッケー部全体の歴史における痛恨の一事である。付け加えれば、僕は大学院で教育史を研究するようになり、あの盾が一体いかなる経緯で下付されたのか、解明すべき価値があると思うようになったが、果たせていない。

 僕は、京大同期の山下俊幸君と、東京学芸大学附属高等学校(以下学附)でホッケーをやり、ともに一浪して1974年に入学した。大学1年の時から白須君と話すようになったが、それは山下君が同期にいて、僕にとってなにか気安かったということがあっただろう。上級生になってからは、白須君とそれからもう一人九大の吉田隆明君と、ホッケーの取り組み方で特に話が合ったように思う。おそらく三人とも、日本を代表する学問の府であるはずの旧帝大で、学問をする身を削りながらホッケーに取り組むということに、ある種の共通のロマンを感じていたのではないかと思う。いや、東大のホッケー部同期にはそういう感覚がかなり強かったので、七帝戦やインカレでたびたび話したのは何かほかにも波長が合うところがあったのだろう。

 入学した年の東大は、1969年の大学入試中止で抜けていた学年の欠落が埋まり4学年全部が揃った2年目だった。しかし運動部全体の弱体化が著しく、東大のかなり多くの教員がその状況を嘆いていたように思う。僕が受講した教養教育フランス語の講義でも、当時まだ助教授だった担当の芳賀徹氏が、講義で出席を取る時に、野球部の同級生が午前中の練習のために毎回授業を休んでいると聞くや、「じゃあCだな」の一言ですまし、その瞬間、授業が沸く、ということがあった。教養の物理実験の授業でも指導を担当する助手から、インカレ出場のような場合には考慮するので事前に話すようになどと言われたりした。

 僕たちが1年生の頃、現役チームはOB戦をすると全く試合にならないくらい差があり、紛争後の弱体化をひしひしと感じさせられていた。東大の僕たちの代は、2年生になった頃には、いかにしてチームを強化し、一部に復帰するかを考えるようになった。当時可能なあらゆる手段をとったが、京大から見てわかりやすい例は部員数の増加であったろう。京大の部員も、僕が4年生の時に、七帝戦会場に現れた東大の部員数が異様に多く40人ぐらいだったことを驚いていたように思う。僕たちは2年になった時から部員数を1学年で1チーム以上にすることを目指して部員を勧誘し、レギュラーになる見込みがなくなると退部するという風潮を改めた。1年次で20人、2年以上でも10人程度の部員を維持するという戦略をとったのである。

 そうした努力の成果は、東大ホッケー部の場合には、10年ぶりの関東大学リーグ一部復帰となって現れたが、東大の全学的な流れの中では、ボート部がインカレ優勝どころか、全日本選手権で3連覇するという偉業を成し遂げるに至る。

 一方で、京大にもそのような運動部強化の方向性があった。特に京大アメフト部の活躍は群を抜いた。学生王座に輝いたばかりでなく、さらに全日本選手権の勝者となって全国を興奮の渦に巻き込んだ。京大の教員たちがアメフト部員を支援し、大学4年はアメフトに専念して5年で卒業するということもたびたび話題となっていた。

 卒業してだいぶ経ち、30歳に近くなった頃だったか、すでに京都市役所に勤めて中堅になりつつあった白須君に会う機会があり、アメフト部のことが話題となった。僕は、「京大ホッケー場の隣のグラウンドで練習しているアメフト部から影響を受けなかったか」と聞いた事がある。白須君はこんなことを語った。「皆、強くなってからのアメフト部に注目して、今どんな練習をし、どんなチーム運営をしているかに興味をもっているが、水野監督のほんとうにすごかったのは、弱小チームからリーグ優勝へ導いた時の練習だ、それを隣のグランドから見ていた」。なるほど、そこに目を付けるのか。その時僕はそう感じた。彼がその後京大ホッケー部の監督を長く務めたのもむべなるかな、である。ただ、僕自身は、愚かなことに、当時京大アメフトのすごさがテレビなどでも喧伝されていたため、それでわかったつもりになってしまい、そのすごさの中身を具体的によく聞いていなかった。今度会う機会があったら、その話を改めて聞かなければならないと思っている。

 なお、ホッケー部強化とは関係のないことだが、白須君はその水野彌一監督に目を付け、京都市役所が主催する市民講座か何かで講師として招いたところ、話が聴衆とうまくかみ合わなかった、という失敗談も聞いた。チームを強くすることはできても、一般向けの話ができる人ではなかったと反省していた。その話は、後に僕も大学に勤め、シンポジウムを企画する機会が時々あるため、肝に銘じている。

 京大も東大も、全日本選手権を狙うようなホッケーチームが作れるだろうか。白須君とはそんな話もした。彼は、「アメフトの水野監督のような指導はホッケー部の部員には無理だ」と僕に語ってくれた。僕も現状では無理だという点では同意したが、ただ僕の方は必ずしも永久に無理ということもないだろう、と思っていた。

 そう僕が思った背景の一つに、1976年からの東大水球(水泳部)の活躍があった。75年に私立武蔵高校の水球部が新制インターハイで全国準優勝したあと、そのメンバーの多くが東大に合格して水球を続けたのである。当時、武蔵高校は東大受験の私立御三家の1つだった。僕が4年生の時、水球とホッケーの二股を掛けた1年生部員がいて、その様子を色々話してくれた。関東学生リーグの三部にいた水球部はまず三部で軽く優勝、次に二部で優勝して一部へと駆け上がり、大学3年になった時には一部リーグで活躍するに至っていた。水球は見た目よりも荒っぽいスポーツで水面下では殴ったり蹴ったりがざらだと言うことだが(誤解だったら申し訳ない)、インターハイで決勝まで勝ち上るということは、チーム力や個人技だけでなくそのような腕っ節の強さももつことだという話も聞いた。

 折しも、ホッケーでは大阪府立天王寺高校が、新制インターハイでベストエイトに入るなど、全盛期だった。京大、東大だけでなく、大阪大学、北海道大学、一橋大学など多くの国立大学に選手を送り込み、あちらこちらでキャプテンになっていた。一橋大などそのキャプテンの下で関東一部3位という瞠目すべき結果を出してもいた。僕の頭の中では、武蔵高校の水球の活躍は、天王寺のホッケーのイメージと結びついていたように思う。当時、天王寺出身の東大同期に練習の様子を聞いた。東大、京大に多数の卒業生を入学させる進学校であるにもかかわらず、伝統の力もあって、練習は月曜のみ休みの週6日、長期の休みも盆と正月にそれぞれ1週間程度、というような話だった。多少誇張はあるかも知れないが、公立高校の受験校でもそこまでやるか、と思わせるような勢いであった。山下君や僕の母校の学附とは鍛え方が違い、母校は足元にも及ばない

 もう一つの背景を挙げるとすれば、ホッケーが巧緻性の高いスポーツだということである。低年齢から始めるとプレイの質に決定的な差が生まれる。僕が4年の時、富山県小矢部市で小学校からホッケーをやっていた稲葉雅幸君が入部してきた。そのスティックワークは華麗というものとは違い、まさにボールがスティックに吸い付くような感じで、高校レベルから始めた者とは著しく違う。それは高校以上でホッケーを始め、どれだけ厳しい練習をしても決して身につくものではなく、まさしく英語のネイティブ・スピーカーと、英語を中学校から外国語として学んだ者ぐらいの違いがあった。ちなみに彼は、現在東大大学院情報理工学系研究科の教授で、ホッケー部長を務めホッケー部を支える立場になっている。

 武蔵高校のような中高一貫進学校にホッケー部があって、東大や京大に入部してくればチーム力は劇的に変わるだろう。あるいは学附でも、附属小中学校にホッケー部があって小学校から始めた者が揃えば同様だろう。それは絵空事ではなく、学附の系列の附属中学校の一つ世田谷中学校は、当時中学校では全国一の東大への進学校だったが、実はもう一つの顔があった。旧・豊島師範附属小学校の時代から続くサッカーの強豪だったのである。毎年中体連の都大会では優勝準優勝の常連だった。僕が同校の生徒だった頃、校内のふだんの休み時間に遊びでブラジルの選手のようなボール捌きを見せびらかしていたことが忘れられない。(現在弱体化したのは、ある年勝ち上がっている大会の最中に、学校が狂気の方針を取って突然中体連を脱退し、大会を棄権させたばかりか数年間対外試合をすることも禁じたことによっている。附属が進学校であることに批判が集中している現在、もしサッカーのこの伝統が残っていればどのような評価を受けるだろう。)

 紛争後の僕たちの時代、運動部を思いっきり強化することを夢とするような感覚が、旧帝大にはあった。今振り返ってみると、旧制高校文化の残照を浴びていた新制の東大、京大の学生たちの間で、それは遍くといってよいくらい共有されていたのかも知れない。白須君に何回か強化の可能性を話したことがあったのは、僕の脳裏にそんな具体的なイメージがいくつも重なっていたからだったが、ただ十分には話せていなかったと思う。それに、実現するには、僕自身が附属中学校の教員になるしかないようにも感じていた。そういうことも察して白須君は無理だと言ったのだろうが、一つの夢としては共感してくれていたのではないかと思う。今回、その背景を整理して説明することができてうれしく思う。京大も東大も、ホッケー部創部50周年の頃、旧制高校文化が消えゆく中で、強化の夢を継承しようとしていたのか、はたまた新しい運動部のあり方を模索していたのか。そのような時代だった。

 祝 創部九十年。90年間を通じてということはないだろうが、少なくとも今から40年前の一時期、京大と東大のホッケー部員の間で、そのような共有される夢があったということを書き記して、京大ホッケー部創部90周年の祝いとしたい。

 

 僕は30歳を過ぎた頃、いくつかの理由でホッケー協会等の関係から手を引き、ホッケーの傍観者となってしまった。以来、白須君とは長い間年賀状の遣り取りをするだけだったが、最近、白須君から京都市役所を定年退職して大学に教授として勤めるようになったという葉書を貰い、初めてメールを使った遣り取りをした。

  (東京未来大学こども心理学部教授)