白井 聡(昭和56年卒)
p36-37
昨年のOB会誌に「創部90周年を迎えるにあたり、どうしても書き留めておきたいお3方がおられます。故片桐先生、故国友先生、古澤先生の3名です。本年は片桐先生について記します。」と一文を寄稿しました。あれから一年。本年は国友先生、古澤先生の巻です。
*国友 孟 先生(昭和35年卒)
最初にお会いしたのは私が1回生の昭和52年7月のOB戦だったような記憶がある。教授である先生は多忙を極め、部長としてのリーグ戦応援もままならない様子だった。
私の第一印象は「直言居士」。単刀直入、無駄なフレーズはなく、舌鋒鋭く畳み掛けられる。しかもロジカルなので、反論するのは大変。4回生の返事は「ハイ!」だが、明らかに渋面。
春季リーグで実力的には1部に上がれる筈だったのが、2部残留となった直後。ショートコーナーのヒッターに「君は下手だから、代わりなさい。」聞いていた私は驚いた。
後年、「国友先生は、大学院生時代には部員よりも早く農Gに来て熱心に指導され、合宿所にも一緒に寝泊りされた。」と昭和40年代卒のOBから聞いた時、ようやく合点がいった。現役時代を含め、誰よりも長くグラウンドにおられたからこそ、京大ホッケー部は先生の身体の一部なのだ、と。
「奇をてらわず、学生らしく、正攻法で」がおそらく国友先生のホッケー観だったと思う。結構こだわりはお持ちで、「我々は京都大学ホッケー部である」。と常に断言され、『陸上ホッケー部』とか『フィールドホッケー部』という呼ばれ方や表記については聞くのも見るのも嫌そうだった。
また、私が2回生になる時にチームが新調したユニフォーム(監修4回生)には、ちょっと軽蔑したような眼差しで、「京大のスクールカラーは『濃青』だろう!」と怒気を含まれた声で一喝された。確かにシャツが白、パンツは黄色で背番号だけは濃青。全く強そうには見えなかった。(その次に新調する際にはシックな濃青に戻した)このように書くと融通が利かない頑固親父の様な印象を与えるが、実際には偉ぶったところは微塵もない紳士。学生に対しても大人として接していただいた。
私が2回生で主務をしていた時に、「九大での七帝戦に向かいます」と挨拶にうかがったら、「時間が取れずに応援に行けないが…」と、『陣中見舞』という表書きのある祝儀袋を手渡された。「真摯で面倒見がいい方だなぁ。」と、先生の人となりに触れた思いがした。
国友先生は、主将、大学院時代から監督を5年、部長を12年、と30年近くにわたり、京都大学ホッケー部を物心両面で献身的に支えてこられた。創部60周年の諸事業を目前に病に倒れられた時、さぞかし無念な思いをされたことだろう。50年史の中で、先生が現役諸君に向けた言葉を最後に記す。
「我がホッケー部の長い歴史に思いをやり、自らを厳しく鍛え、深く考え、技術の鍛錬につとめて、各自が筋の通ったたくましいスポーツマンとなるとともに、友と深く交わってチームワークの向上をはかり、快哉を叫びうるような戦績をいつの日か挙げてくれることを強く願っています。」
40年経っても、色あせることなく輝き続けている。真言はいつの時代もシンプルだから。
*古澤 保 先生(昭和37年卒)
最初にお会いしたのは私が2回生になる直前の春合宿だった。大学院生の頃からコーチとして熱心に後輩の指導に当たられていたが、当時は宇治キャンパスにおられ、ホッケー部とはやや距離を置かれている感があった。ただ国友部長の信頼は厚く、「古澤さんならきっと鍛えて強くしてくれる!」そんな国友先生の思いを知るはずもなく、我々は宇治に送り込まれた。
天王寺高校の経験者としてホッケー部に入部されたと聞いていたので、さぞかし理論派かと思いきや、「タックル1本で止める、出来なかったら止まるまで棒を出し続ける」。気持ちを一番重視する根性論が意外だった。「もちろん技術は重要だが、最後は強い気持ちを持てるかどうかで勝ち負けが決まる」、今思えばそれを叩き込まれたような様な気がする。
古澤先生は自ら書かれている。「私のホッケー部との関りは全くに於て国友さんを通じたもので、常に国友さんの指令の下に動いていただけでした。」多分に謙遜されているとは思うが、理論とその実践。おふたりは類稀なる名コンビであったに違いない。
国友先生が逝去され、部長は古澤先生が引き継がれたが、足掛け11年にわたる部長時代の後半数年間は、ホッケー部存続の危機と直面された。原因はひとえに「部員不足」。フォーメーション練習も満足にできず、「来年は試合ができるのだろうか?」という不安な日々が続いた。
そんな状況の中でも、将来に備えて現役部員への援助を強化できるように、OB会の設立に取り組まれた。「俺がOBを束ねるから、お前が部を見ろ!」と大東先生に後事を託され、現役・OBが一体となった京都大学ホッケー部の組織化を実現された手腕は見事だった。
「ミュンヘン会議」というヒトラーのミュンヘン会談とは全く無関係の、「ミュンヘン」(ビアホール:四条河原町)で行われる不定期な会合がある。国友・古澤両先生に厳しくシゴカレ、強豪の名を欲しいままにした昭和41年卒の皆さんが主催される、古澤先生を囲む飲み会である。私も数回招かれたが、50年以上前の記憶を昨日のことのように楽しく、時に悔しく談笑される様は、皆さん一様に「我が青春に悔いなし!」を体現されている。
古澤先生は77歳の現在でもシニアリーグで活躍中(今年3月に左手首を骨折されたが、5月には試合に出たそうなので、回復力も驚異的である)。9月10日の記念試合では、年長OBチームである
「 Legends and friends ! 」のスターティングメンバ―として、平均年齢を2歳以上も上引き上げていただいた。(平均年齢は何と! 59.5 歳。10年後はおそらく60代前半?)当日のプレーをチームメートとして間近で拝見しましたが、まだまだ大丈夫!
現役プレーヤーとしても、またOB会のご意見番としても引き続きご活躍され、10年後の創部100周年には、ぜひ農Gで再びその雄姿を拝みたいものである。