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創部90周年にあたって  -私も少し歴史を語ります

 白井 聡(昭和56年卒)

 p31-35

 私が京都大学ホッケー部に入部したのは昭和52年、50周年記念式典が執り行われた翌年のことです。

 以来39年。90年の半分にも至りませんが、私なりの歴史を記したいと思います。

 

Ⅰ.山高ければ谷深し

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす(平家物語冒頭部分)。驕り高ぶった訳ではありませんが、90年の間には深い谷も幾度かありました。

 最初は昭和41年でしょうか?強力な4回生12人が卒業した後、1年で1部最下位2部降格、2部最下位という状況。しかし国友先生、古澤先生の熱心な指導の下、2年で1部に復帰。当時を振り返って、井川さんがポツリ。「部員が11人しかいないのにコーチが5人もいて、練習に行くのは気が重かった。」

 

 次は私が卒業した年(昭和56年)から。我々の学年も人数が多く、14人入部して11人が残りました。そのあおりを受け、1学年下は2人の入部に留まり、2人共2回生の終了を待たずに退部。4回生がいない状態で臨んだリーグ戦は2部最下位で、3部制になって初めて3部に降格しました。前回と決定的に違うのは国友先生、古澤先生の姿がグラウンドに無かったこと。2年続けてキャプテンを務めた沢村さんは筆舌に尽くし難い苦労をされたと思います。(9月10日は彼が農Gに元気な姿を見せてくれ、本当に嬉しかった)部員は1学年5~6人の年が続き、ヒット、ストップ、ドリブル、タックル、ランニングといった基本練習の反復を重ねて、昭和59年には5年振りの1部復帰を遂げました。

 昭和61年卒の河村さんが語ります。「昭和60年卒業の先輩達も含め、3年間で3部から1部までの関西学生の全チームと対戦しました。貴重な経験です。」昭和61年から62年にかけて4期連続1部で戦っています。昭和60年にはインカレベスト8、昭和61年には京都で七帝戦優勝。私は創部51年目から京都大学ホッケー部と共に歩んできましたが、この頃のチームがこの40年間で最も強かったのではないか、と思っています。

 「谷深ければ山高し」、努力は裏切らないことを後輩はキチンと示してくれました。

 

 平成4年から平成5年にかけて1部から2部降格、続いて3部降格となり、以降平成7年まで3部が定着しました。特に平成9年の春に向けての状況は厳しく、部員不足で部の存続が危ぶまれる事態が懸念されました。春季リーグ戦は、卒業後2年までは出場が可能という当時の規定に救われ、OBの参加で形は作れたものの最下位。4部に降格、七帝戦は涙を飲んで棄権せざるを得ませんでした。もう一人、2年続けてキャプテンを務めた武元さんも、悩み苦しまれたことと思います。

 捲土重来、平成12年にようやく春季リーグ戦4部優勝、入替戦に勝ち3部昇格。秋季リーグ戦は3部優勝、入替戦に勝ち2部昇格、という素晴らしい結果を残してくれました。

 

 これからも、順風満帆という訳にはいかない時もあるでしょう。ぜひ先輩達が苦労してタスキを繋いできてくれたことを現役諸君は決して忘れないで欲しい。

 

Ⅱ.杉浦特別コーチ

 平成18年に創部80周年を迎え、翌平成19年から3年間、特別コーチとして杉浦利哉先生にひとかたならぬお世話になりました。元日本代表としての卓越した技術は勿論のこと、熱心な指導と円満な人格で部員からも慕われ、チーム力は短期間で確実に上がり、平成20年春季リーグで1部に昇格。

 One for all ! All for one ! 後者のone は一人のために、ではなく、一つの目的(勝利)のために、が正しいようですが、共通の言語(今時ではプラットフォームでしょうか)を持った組織は強く、その後3~4年は1部下位の実力を保ち続けることができました。先生から直接教えを受けたのは3年間だけでしたが、最後の世代が4回生になった平成24年にも、その教えは生きていた、と息子(当時大学院1回生)は言います。実に6年間の長きにわたり、京都大学ホッケー部が磨かれ、感化されていた訳ですね。

 私がOB会会長に就任してから最初のシーズンとなった昨年秋季リーグでは、残念ながらチームは共通の言語を持てていないことが分かりました。もちろん現役部員と監督(若いOB)は彼らなりに頑張ってはいますが、若者だけで課題を解決するには経験と引き出しが少ないように思います。

 意欲・能力が高く経験豊富な杉浦先生に、過去と同じ形にはならなくても、もう一度お力を借りる時期ではないか、と最近は痛切に感じています。

 

Ⅲ.女子部誕生

 東京では学芸大附属の経験者がメンバーを集めて京大ホッケー部女子部を作った、という話も出ているそうなので、この際訂正しておきます。

 平成24年にホッケー部の女子マネージャーをやっていた水原さん(初代主将)がホッケーの魅力に染まり、どうしてもプレーがしたいとメンバーを募り始めましたが、翌年の新入生勧誘が上手くいかず、2年間は2人だけで練習する(or他校の練習に混ぜてもらう)日々が続きました。平成26年に中坪さん(現主将:学芸大附属高校卒)たち現3回生が3人入部し、他大学からの助っ人(2人までは試合参加OK)も加えて、ようやく6人制の試合に出場できるようになりました。

 ≪本当の創部は対外試合をおこなった、この時点だと思います≫

 平成27年に現2回生が6人入部、秋からリーグ戦に参戦して初勝利もあげました。

 部を作ろうと考え、周りがもう辞めたらと言うまで頑張るのも凄いですが、(私も難しいだろうなぁ、と当初は静観していました)亥年生まれの私が驚くくらいバイタリティー溢れる水原さんの後を継いで部の基盤を整備し、なおかつ一人も辞めていかないような居心地の良さまで作り上げた中坪さんは出色の人物だと思います。学連の業務もそつなくこなして、他大学からの信頼も厚く、サポーターの輪が広がっています。まさに情けは人の為ならず。

 先日農Gで「JAPAN」のロゴ入りウェアを着た方が女子部の指導をされており、誰だろう?と思ったら、さくらJAPAN現役コーチの三浦さん。(元日本代表、北京オリンピック出場時の主将)こんなの普通はあり得ないでしょう!練習が終わって三浦さんにお礼を言うと、「彼女たち、一生懸命だから応援してあげたいんです。」本当に感動しました。

 創部50年が経った部に入った私と違い、創成期はその当事者の一挙手一投足が即ち歴史そのものであり、彼女たちは、はたで見ていても眩しく感じられます。彼女たちの成長ぶりを横で見ているだけで私も勉強になるし、私の拙い経験・知見でも彼女たちの役に立てば、という思いで、時々農Gで練習に参加しているという次第です。

 7月17日(日)の毎日新聞京都版に掲載された記事を別ページに掲載します。カラーでないのが残念!

 実物の彼女たちはもっと「キューティーハニー」です。皆様ぜひ農Gに足をお運びください。

 

Ⅳ.OB会会長就任前後

 私は大阪に本社があるサントリーに就職しましたが、名古屋→東京→名古屋と渡り歩き、大阪勤務になったのは平成12年。41歳になっていました。(遅れて来た青年?)ようやくこの時から少しずつOB会の業務にも取り組めるようになり、京都に足を運ぶ機会も増えてきました。

 平成23年秋、農学部グラウンドの改修工事(フィールドの人工芝化)が具体化し、農Gを使用する運動部の間で意見交換・利害調整が始まることとなり、ホッケー部OB会内に「ジンシバ委員会」を立ち上げました。(野間さん、寺田さん、高橋さん、私の4名)

 対外的な窓口をしていた私は2カ月に3回位のペースで会議に出席しました。全体の音頭を取っているのはアメ・フト。学生部は丸投げに近い形で権限を委譲しており、「給料分位の仕事はせえよ。」と思ったものでした。当方の獲得目標はあくまで、公式戦ができる人工芝を敷くこと。アメ・フトやサッカーなどコンタクトの多いスポーツでは、倒れ込むことを想定してクッション性の高いロングパイルが望ましい。一方ホッケー部はボールに影響が出にくいショートパイルが理想。

 現役と協同しながらサンプルを取り寄せ、公式戦が行なえるミドルパイルの敷設を主張しましたが、最終的にフィールド中央はロングパイルに。当方が譲歩したことを逆手に取ってホッケー専用のショートパイルの敷設と占有面積の拡大は勝ち取りましたが、大文字山を仰ぎながら七帝戦を戦えなくなったことには自分自身が寂しいのはもちろんのこと、諸先輩に対して申し訳なく思いました。

 同時期に予算措置のできていない部室棟の建替えが浮上しました。各部が受益者負担をするという考えに疑問の声も上がりましたし、「耐震性は別だが、狭くて古いのは我慢できる。OBに多大な負担を強いるのは心苦しい」という各部の現役からの声も上がって二転三転しましたが、「農G人工芝化の本体工事入札後に発生した予算残を、部室棟建替えに活用するという学内のコンセンサスを施設部が取る」ことを前提にして、ようやく部室棟の建替えが前に進みました。

 綺麗に整備された施設の中にみすぼらしい部室が残っていることが、大学には許容できなかったのかなぁ、と後になって思いますが、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」のイエスでもなかろうに、今でも部室を使う誰が喜んだのか、良く分からない話ではあります。

 現役諸君、人工芝化の時にホッケー部は大幅に譲歩しました。このことは未練たらしく語り継いでもらい、「転ばなかったら(=上手かったら)、短い芝で良かったんだよねぇ」くらいの厭味は言ってもらって結構。当然の権利として、年に2回のOB戦や10年に1度の節目の行事では、フィールドの真ん中を誰憚ることなく使わせてもらいましょう!万が一文句が出たら、当時の交渉当事者の私が喜んで出て行きます。当時は身も心も京都大学ホッケー部に捧げていたような気になっていましたが、今に比べたらまだまだ可愛いものだったような気がします。

 

 昨年7月のOB理事会前に、白須OB会会長から「OB会会長を辞したい。ついては後任を引き受けて欲しい」という依頼がありました。大学院に復学するため時間的な制約が発生すること、現役部員との意思疎通が難しいことがその理由でした。現役時代から長年お世話になっている事実を踏まえ、引き受ける旨の返事をしましたが、その時脳裏をかすめたのが、「自分は60歳で郷里に帰る。あと3年半。時間が無い」ということでした。

 少なく見積もっても①女子部の支援体制の確立、②男子部の技術力強化、③OB会組織の抜本的な活性化、④中長期に安定したOB会執行部の編成 などの課題を短期間にクリアーしなければなりません。「限られた時間の中で最善を尽くそう」今も就任直後の気持ちを思い出しながら、自分を奮い立たせています。

 さて、最後に財政的な課題についても触れておきたいと思います。

 1年3カ月前、女子部支援の方向性を決める際、男子部は心優しく、限られたパイの配分について、今までOB会からもらっていた支援金の額を既得権として主張しない、ことを意思表示してくれました。OB会会長である私の考えは、大会の登録料など固定的な費用については男女それぞれ全額支援する。他の費用は各年のOBの皆様からの入金状況によって支援金額が変動する、というものです。

 ただ、今は男女合わせて60名を超える大所帯となりました。登録料・大会参加費だけでも男子部60万6千円、女子部50万1千円かかります。ここ数年の入金状況では、登録料等に充てたら The end ! レンタカー代などの移動費や遠征時の補助はもちろん、外部指導者の招聘など将来への投資は全く出来ません。チームが2つになったからお金が倍かかる、という至極当然の現実です。

 

 私の周辺でヒアリングした他部、他大学の状況について記します。

①京都大学ボート部

 OB会員1,000人、50%のOBから入金があり、年間総額1,000万円(2万円/人)。そもそも試合に出場するために、艇を輸送することからお金がかかる。基本的に合宿生活のため、OBからの援助で部の活動が成り立っていることは現役の時から理解している。OBの方も寄付をしていなかったら同学年の他メンバーから「何で払ってやらないんだ」とお叱りを受けるそうである。

②東京大学陸上運動部

 OB会員1,000人、70%のOBから入金があり、年間総額700万円(1万円/人の定額)。平成世代の入金率はやや落ちるそうだが、70%の有効稼動は驚異的な組織力です。東大でもグラウンド改修問題が持ち上がっているが、大学側は終始「大学が運動競技施設改修の費用負担をしたのは、京大が最後」というスタンスのため、6,500万円を独自で集めなければならない。(でも4,000万円は超えたそうです)

③早稲田大学野球部

 OB会員数などの詳細は不明であるが、年間10万円/人。しかも銀行口座引き落としなのだそうである。 This is体育会!

 翻って我が京都大学ホッケー部の現状は…

◇OB会員300人超、OB会費が3,000円で現役支援費は各人が金額を設定する方式。

 結果30%超の入金率。年間総額100万円超。

 他部・他大学に比べるとかなり緩めの設定になっており、結果も甘め? でも早大のような行き過ぎた強制力はそもそも京大のカルチャーには馴染まないし、東大の70%は美し過ぎてベンチマークにはなり得ません。

 ここは同胞の50%が中期目標でしょうか?一人あたり平均1万5,000円お支払いいただければ、軽く200万円は超えます。これなら優秀な外部指導者(私はコーチの肩書きではなく、できれば優秀な方には監督もお願いしたら、とまで思っています。これに関してはまた別の機会に論議いたしましょう。)の方と長期的かつ安定的なお付き合いが可能になります。

 

 さあOB会会員の皆様、現役に強くなってもらうことを期待して、まずは投資をしましょう!

 「宝くじは1回当たれば2度と買う必要がないから」という信念のもと、30年以上買い続けた自分が情けなく、私は最近その元手を現役支援に回しています。勝って喜ぶ姿は男女を問わず美しいもので、それを見ている自分も嬉しいからです。

 1日50円。でも年間では18,250円! 皆様のヘソクリの供出を心よりお待ちしております。

 

<毎日新聞 掲載記事>

2016年7月17日 毎日新聞京都版朝刊より転載