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創部90周年にあたって ― 歴史を知ろう

大東 肇 (昭和41年卒)

 p26-30

 ホッケー部創部90周年を無事迎え、誠におめでたく、今は亡き諸先輩に敬意を表しつつ関係者の皆さんと共に慶びたく思います。過日の記念祝賀会も大盛況。当方も昔を懐かしむなど快い夕べを過ごしました。光栄にもスピーチの機会にも恵まれました。当日はやや説明不足ともなりましたので、本稿では、その内容を、使用したppt図(修正あり)の一部を掲げ、記しておきます。

 

 S37年入学組(S41年卒)である私は、長い部の歴史の中でも間違いなくいい時代を過ごした一員でしょう。当時は故国友 孟監督と古澤 保コーチが、私たちを囲うがごとく情熱深く指導されていた時代。仲間にも恵まれ、毎日が青春そのものでありました。当時の状況については、過去に多くの同期生らが、また、最近では太田氏(後に監督)がOB会誌(H27年度)に纏めてくれていますので、詳細は従前のそれらに譲ることにします。当方、卒業後は、太田監督に請われコーチングに携わった(S46年~S48年)程度でしたが、S61年に国友氏(当時部長)の若くしてのご逝去、代わって古澤氏の部長就任など部の歴史に大きな変化が生じ、それに伴い当方も部との関係が騒がしく、また、濃密になってきました。H9年には古澤氏に代わって部長に、H19年には須谷氏の後任としてOB会会長を務めることになりました。以下、私なりに捉えた部の伝統や部長・OB会会長時代のエポックなどを振り返り、今後の部に対する提言や期待に繋げたいと思います。

 

 私が部長に就いた裏には、ホッケー部に対する古澤氏の熱い思いがあったことを、まずは、強調しておきます。氏が部長時代の平成初期にチーム力が急速に落ちてきた時期がありました。氏の心痛如何ばかりであったでしょうか。このような状況下、氏から「このままではホッケー部の火が消える。おまえが部長をやれ。俺はOBをまとめる」との言があり部長を引き継いだ次第です。OB会設立の要望は創部70周年(H8年)を迎える頃から出始め、まずは卯津羅先輩を初代会長とした会が発足しておりました。しかしながら、時代はさらなる組織化を求めていたのでしょう。古澤氏の熱意は、H12年により組織化されたOB会(須谷2代会長)として実ります。今日の部の活動を支えるOB会の姿を見ると、正に、“古澤氏の慧眼高し”と感じます。京都大学を定年退職時(H19年)まで部長を勤めた私は、今度は、須谷氏の命によりOB会会長を仰せつかりました。この会長時代のH21年に京都大学体育会設立60周年を迎えることとなりました。その記念事業の一環として「京都大学体育会60周年記念誌」の編纂が計画され、各部の小史をまとめることになりました。当方、高橋暢晴理事(H2卒)のご協力下、不十分ながら、主として記念誌を通して部の歴史を勉強する機会を得ました。その中で知り得た部のエポックなどを取り纏めたのがppt図1と2です。なかでも、創部時の大先輩方の情熱・心意気(負けるな! 東京大学に―ホッケー10年史より― 図1)や、戦後いち早く再建なった部のS21年関西学生秋季リーグ戦からの3季連覇(図2)などが印象深い歴史でした。こんなに素晴らしい時代もあったのかと驚きの目で記念誌にある記事に触れました。なお、創部初期や戦後復興期時におけるわがホッケー部の活躍振りについては、本稿で、須谷元会長が詳しく紹介されておられますので、ご覧ください。

 

 戦後数年を経て、後の7大学戦に発展する国立大学リーグ戦や関西学生リーグ(以下、関西リーグ)が徐々に整備されてゆきますが、記念誌で振り返ると、国立7大学戦での優勝(大会開催後初優勝まで8年かかっている)や関西リーグ戦1部校として戦うことなどは部の悲願であったことが良く読み取れます。残念なことに、今では、ホッケーは国立7大学戦の公式競技から除外されておりますが、再度公式競技への復帰の機運もあるようにも聞いております。一日も早い大会への復帰と優勝(最後の優勝は30年も前!ただし2016年には非公式競技ながら優勝)を期待しています。一方、関西リーグの1部校としての活動はH22年(2010年)秋季が最後。早期の1部復帰も望まれるところです。

 

ppt図『ホッケー部小史(創部~)』

ppt図『ホッケー部小史(~OB会発足)』

ppt図『ホッケー部長として、OB会会長として』

 

 

 なお、部の歴史を語る出版物・「ホッケー十年史」・「三十年史」・「五十年史」・「60年史」「70年記念誌」・「80周年記念誌」が部室(別途京大図書館)に保管されております。是非ご覧ください。

 

 さて、ここから、私の部長(H9~19年)やOB会長(H19~H24)時代のエポックやその時々で感じたことなどについて記しておきます(ppt図3)。先述したように、部長就任当初は部員激減、時には選手より女子マネージャー数の方が多く、関西リーグでは4部最下位に落ち込むなど“危機の時代”でした。兎に角、部員増が喫緊の課題でした。また、部の軟弱化とともに、部員の不始末(行事中での急性アルコール中毒など)が起こる時代でもありました。世の風潮に靡いてしまう、正に、“部の同好会化”を感じさせる時代です。この時代はまた、体育会所属の他の部でも多数の不祥事(なかには反社会的行為あり)が表面化し、全学的に“カレッジスポーツとは?”が問われた時でもありました。この状況は部長の宿命と捉え毎日のように会議に没頭することになりました。でも、悪いことばかりではありませんでした。H12年度に、4部から一気に2部リーグへと駆け上りました。選手の自覚が一番のことですが、OBの熱い視線も力となったはずです。本実績により、その年度の“京大スポーツ大賞・敢闘賞”を受賞。「来るべきものがやっと来た」と実感しました。その他、OB会からの要請により、OB寄附金(現役援助費)の予算化がなされました。現役諸君にはこの透明化された寄附金の有難さを知る機会になったのではと推察しております。

 

 OB会会長(H19年度~)を承った際、前任者須谷氏から厳しく言われたことはOB寄附金のさらなる充実でした。この言は会長時代を通して私の肩に重くのしかかっておりました。ppt図には特に載せてはおりませんが、毎年のように、部の財政状況の説明と理解を訴える一方、野間副会長のご尽力の下、須谷会長時代から懸案事項であった年代リーダーの設置(実際の確立・活動は後の特別寄付金の募集時)を考えるなど寄附金増額に向けた試みを各種行い、そのお陰か、寄附金額3桁(100万円以上)にまで至りました。“安定した3桁の寄付金”が目標でしたが、そこまでは届かなかったことが心残りです。他方、チーム力アップの一アイデアとして、わが部に相応しい優秀な指導者をコーチングスタッフに招いてはとの考えに至りました。これにも野間副会長のご苦労は大きく、氏の綿密な調査と強力な推薦にて、杉浦利哉氏を特別コーチ(H19年)にお招きすることになりました。全日本代表であった杉浦氏の技量や指導力、そして最も重要なる識見などは私達の期待に沿うもので、またたく間に部を1部校に昇格・定着させてくれました(図2参;2008年秋季~2009年春季まで1部校)。改めて、指導者(体制)の重要性を感じさせた出来事でした。

 

 さて、OB会会長として最も重大な事柄は農学部グラウンド(農G)の人工芝化と、それに伴う部室改築問題でした。芝化は、元々、農Gを本拠とする部(特に、脚光を浴びている部)によって提案されたものですが、これを契機に体育会の存在意義が一気に盛り上がり、未確立であった大学の統合的組織・濃青会の発足、次いで、体育会設立60周年記念事業の企画などに繋がってゆきます。農Gの芝化経費は大学側の負担で落ち着きましたが、例に漏れず、芝の種類や占有スペースなど個別的課題が浮かび上がってきます。2年近くの議論の末、結局、わが部の要求したショートパイル芝は経費的に無理との結論。日頃の練習域を少しは拡張することで納まったようです。この過程では、OB会が直接体育会側と交渉できる訳ではありませんので、詳細な議論内容については定かではありませんが、90年の伝統を誇るわが部として将来展望などを踏まえた主張を堂々と訴え、何らかの担保を得ておくべきであったかとの反省は未だに残っております。一方、部室改築は、その経費が各部に突きつけられた課題として残ってきました。頻繁なOB会役員会での議論の末、最終的に“特別寄附金”を募集するとの決断に至りました。通年の寄附状況から判断し、目標額(年間寄附金の約1.5倍)に届くかどうか半信半疑でしたが、意外にも、若手理事から強いあと押しがあった中での決断でした。もっとも、目標額の7割程度なら、最後は私の同期仲間に縋ればクリアーできるとの確信に近いものがあり、決断に至ったことは事実です。背中を押してくれる(?)仲間の有難味を、改めて、感じた次第です。創部来初の特別寄附金募集はお蔭様で大成功。OB各位には格別のご協力を賜り、所期の目標を達成することができました。OB諸氏の厚い熱情に感嘆するとともに、ご理解・ご協力に、改めて、厚く感謝申し上げます。

 

 農G の改装に端を発する諸問題については野間氏を筆頭とする役員各位にこれ以上ないご尽力・ご協力をいただきました。特に、若い理事諸氏には、わが事のように心を砕き、問題解決に向け力を貸してくれました。ここに至って、私の会長としての勤めは終えたと実感し、バトンを次代にと考えた次第です。この考えは、S41年卒組は素晴らしい時代を過ごせたからこそ、「いつまでも部(OB会)の核心には身を置かず、“陰ながらの支援者”を考えるべし」とする私の信念にも合致するものでした。振り返れば、私は幸せな会長であったと思います。会長として物事を進めるにあたって”10人の同期の仲間”が最後の支えでありました。私の勝手な捉え方かもしれませんが、少々強引でもゴーサインを出すバックボーンなっていたように感じているところです。

 長々と記載し、少々回顧録的にもなりましたが、最後に、現役諸君への提言・提案などを【今後の部(現役)に望むこと】と題してppt図4に纏めておきます。

 

ppt図『今後の部(現役)に望むこと』

 一つひとつ細かには取り上げませんが、大事なことは①内面を磨き(土台)、②責任体制のしっかりした確固たる組織体(【提言中の最初の項目】)の下、③さらに技量を上げることです。ここで、図中の【土台】と【提言中の最初の項目】を敢えて掲げた理由は、先般の部室改築に関する現役諸君の対応状況から強く感じたことにあります。卑近な例ですので少し説明しておきましょう。部室改築は「黙しているうちに天から降りてきた」ものではありません。先述のように、不充分ながらもOB会からの熱い援助があったからこそ実現したものです。この事実を現役部員(特に1,2回生)はどれほど正確に認識しているのか、私には未だに疑問です。本来、改築終了後には、まずは速やかに諸OBに報告し、また、謝意を伝え、一方、重責を担う上級生は改築に関する背景などを後輩に伝えてゆく責務があったのではないでしょうか。このような姿こそ、“カレッジスポーツ”の核心であり、”伝統“にもなってゆきます。また、私の考えている“磐石な組織体”にも繋がります。現役にばかり問題提起をしておりますが、こと本件に関してはOB会にも責任の一端があったように感じております。さらなるOB会との接点強化は重要な課題でありましょう。正に“ホッケー部は一日にしてならず”です。いずれにしろ、上に掲げた姿勢を基本に、さらに技量を磨き、掲げた目標を一つひとつ達成していって欲しく思っております。そして、いつしかオリンピックの代表ともなるような選手の輩出までも期待しております。

 

 

 

 次はいよいよ100周年。皆さん元気な姿で、盛大に、100 周年の記念式を迎えましょう。