須谷 久俊(昭和35年卒)
p21-25
過日の90周年記念式典は、参加者数も各氏のスピーチの内容もこれまでに見られなかった充実ぶりであり、まさしく60年前の昭和31年春に初めて農学部Gでスティックを握った者として感無量であり、周到な準備にご尽力頂いた白井会長および実行委員の皆さまに心から感謝申し上げます。
私は、10年前の80周年記念式典でOB会長としてご挨拶をする立場にいた関係上、ホッケー部10年史(昭和11年1月発行)と30年史(昭和34年7月発行)などの古い史料を熟読していたので、ホッケー部の「昔ばなし」を語り、あわせてOB会長時代の思い出と100周年に向かっての現役の諸君へのお願いを綴りたいと思い立ちました。大変に欲張った試みですが、ご一読願えれば幸甚であります。
【昔ばなし-その一】
京大ホッケー部は、大正15年(1926年)春、任意の同好会として活動をはじめ、昭和3年(1928年)4月に大学から正式の運動部として認められました。ホッケー部の創世記とも言うべき時代に尽力を頂いた恩人の方々のお名前とエピソードをご紹介し、先達の各位に深甚なる敬意を表したいと思います。
1.東京帝国大学ホッケー部 飯田洋二氏 葦澤清氏
このお二人が大正15年春に入洛され、京大にホッケー部設立を勧誘されました。その動機は、毎年秋に行われていた両帝大のスポーツウィークに参加して、対抗戦を行うことでした。当時の旧制高校生間の親密な交友関係があったから、京大側も直ちに呼応してチームを結成し、早慶出身者を主体とする関西倶楽部などのコーチを受けながら練習を始めたのです。
飯田洋二氏は、その後も京大の夏季合宿に参加して指導されています。
2.京都帝国大学理学部 島五郎氏
創部当時、理学部研究室におられた、島五郎氏は慶応普通部(旧制中学)時代にホッケーを経験されていたので、早速コーチをお願いして文字通り手取り足取りの指導を受け、半年後の大正15年9月19日に記念すべき第1回東大戦に臨んだのです。結果は1-5で敗れたが、経験不足の京大としては予想以上の善戦でした。
昭和2年卒の八木先輩が、30年史に島五郎氏のことを「牛若丸に対する天狗のように突然現れた。この人が熱心に指導されるようになってから計画的な練習をすることができた。」と寄稿されています。常に部員よりも早くグラウンドに現れて待ち受けておられたそうです。この点は、後述する国友さん古澤さんも同じであったと思います。
3.コーチ 湯木正巳氏
当時の関西地区ではホッケー競技は極めて珍しく、わずかに神戸外人倶楽部と慶応・早稲田で経験し関西勤務の方々が集まった関西倶楽部がプレーをしていた。新入りの京大は、関西倶楽部に指導を仰いでいたご縁から、慶応出身で当時の全日本チームの名バックと言われた湯木正巳氏のコーチを数年にわたって受けています。
確実ではないが、多分昭和7年頃からコーチに就任されたと思われ、昭和8年卒の深見先輩が10年史に「名バック湯木君のコーチャーをお願いして組織だった練習と新しい戦法の指導を受け始めた」と寄稿されています。
合宿には必ず参加され、途中で用事が出来て帰られる時に部員一同が駅まで見送りに行ったという記事もあるので、部員に慕われていたようです。
10年史に僅か6行の簡潔な祝辞を寄稿されているが、お人柄を表すような達意の名文ですから、全文を紹介します。
「十周年を祝ふ 環境に恵まれぬ関西ホッケー界にあって、創部十周年を迎へるに至った事は誠に慶賀に堪へない。
全日本選手権を目指して輸羸を中原に争ふ今日の隆盛は先輩諸氏の無念の涙、献身的努力の結晶である。猶一層技を磨き運動精神を涵養して日本制覇の実を挙げて関西ホッケー界をリードされる事を望むと共に第十一回オリンピックを控えて部員諸兄の自重並びに部運の今後益々隆盛ならん事を切に祈る。」
㊟ 輸羸(シュエイ)=勝敗のこと。今では使わない言葉です。
まさに、昔も今も現役諸君に訴え、激励する気持ちに変わりはありません。
4.京都大学農学部教授 菊池秋雄先生、および 片桐英郎先生
昭和3年に正式に運動部として認められたが、その際に部長を引き受けて下さったのが菊池先生であり、昭和7年に片桐先生に引き継がれております。
片桐先生は、昭和35年に退官されるまで28年間の長きに亘り部長を務めていただき、京大ホッケー部の黄金時代から戦後の復興期までの変遷をすべてご存じだが、いつも穏やかな笑顔で接していただいたことを記憶しています。京大ホッケー部の象徴とでも言う先生です。
片桐先生が退官された後、30数年後に部長先生を10年間努めて頂いたのが、農学部教授 大東肇様であり、大東様には退官されると同時に私の次のOB会会長を引き受けて頂きました。ホッケー部と農学部は不思議な縁で結ばれているようです。
5.弁護士・前田亀千代氏
京大法学部を大正4年に卒業され、京都で弁護士として活躍されていました。在学中は柔道部に所属されていた由です。また、親友であった菊池先生に初代部長就任をお願いされたのも、前田弁護士でした。
前田弁護士は、10年史に寄稿されているので、その一部を紹介します。
「然ればホッケーという競技については何等の観念も有して居らなかった。大正15年の盛夏と記憶するが突然二高時代のスケートの名人田代君からの紹介状持参、二高出身当時東大ホッケー部員の飯田君が来訪し、京大にもホッケー部設置の勧誘を受けたのだが、さて何人に話していいか全く見当がつかないのに弱ったが・・・」
「弱った」と言いながらも、伝手をたどって飯田氏を紹介し、その後も正式に運動部として認められるまで陰で尽力され、認められそうになると親友の菊池教授に部長就任を依頼しておられます。昔の人は本当に友情が厚く面倒見が良かったと言えます。
【昔ばなし-その二】
その昔の京大ホッケー部は強くて、全国制覇も夢ではなかったと伝え聞いているが、古い史料からその実態を探りました。
1.昭和8年頃(1933年)からの京大は本当に強かった
1926年創部し、1928年正式に運動部になった京大は1933年頃から関西では無敵を誇り、春・秋のリーグ戦では連覇を続けた。強くなった理由は、①三高をはじめとする旧制高校から経験者が続々と入部したこと ②慶応大学OBで全日本チームの名バックと称された 湯木正巳氏 が関西に勤務され、慶応・早稲田の経験者で結成された 関西倶楽部でプレーされていたが、同氏をコーチに招いて指導を受けたこと。この辺の事情は現在も変わらず、人材確保と優秀な指導者が強化の鍵です。
関西で合宿をした早稲田大学との練習試合で引き分けるなど、環境に恵まれた関東勢とも互角に 戦えるという自信を持ったようです。
昭和10年(1935年)は、翌年のベルリンオリンピックを控えてホッケー競技も熱気を帯びていました。
京大は関西リーグで連覇し、11月23~24日の両日東京の陸軍戸山学校で開催された第13回全日本ホッケー選手権大会の関西代表に選ばれた。23日に中部代表・愛商倶楽部に勝ち、同じく北海道代表を破った東京商大(現在の一橋大学)との決勝戦が24日に行われました。
優勝チームがオリンピック代表チームの主力になるから、「勝てばベルリン行きだ」と燃え上がったはずであります。
以下は、LWで出場した太田新一氏 (昭和12年卒) が30年史に寄稿された文の抜粋です。
「これに勝てばベルリン行きである。猛烈なファイトを燃やして体当たりを敢行した京大は、前半零対零で対等、おしにおしまくり、力つきて後半たてつづけて四点をとられて敗れたが、私達としては、全く全力をふりしぼっての敗戦であった。」
なお、記録によるとこの敗戦が昭和10年度の唯一の黒星です。
観戦された片桐部長先生が興奮のあまり咥えていた葉巻を飲み込んでしまわれたと言う逸話が残る激戦でした。
ちなみに、翌年8月に開催されたベルリンオリンピックの日本代表選手団は14名だが、そのうちの6名が東京商大として京大と対戦したチームにいたから、京大の実力はかなりなものであったと言えます。
残る8名の出身は、慶応4名、明治3名、早稲田1名だったから、関東の優位性は明らかだった。決勝に敗れた京大から、国岡、津軽、丸毛の三先輩が代表候補に選ばれたが、最終選考には至りませんでした。その後京大は、昭和11年、12年と続けて全日本選手権の決勝に進んだが、それぞれ慶応と早稲田に大敗して準優勝に終わっています。
2.戦後暫く京大の黄金時代が続く
戦後いち早くチームを再建した頃の主将・浅田裕美氏(昭和22年卒)が30年史に寄稿されています。
「戦争末期、確か昭和18年頃我がホッケー部も野球庭球等々と共に敵性競技という事で軍当局から禁止を受け、その上諸先輩を多数戦争に捧げたのでありますが、終戦となり、ご承知の通りの社会情勢、食糧事情の非常に深刻な時に他校にさきがけて部の再建に着手。伊藤先輩と東奔西走戦前のメンバーを糾合して昭和20年11月より練習を開始し、その後復員して来た諸先輩も段々に相集い、更に新しくホッケーを志す諸氏も相集まり、20数人を擁するホッケー部が再建できました。」
いち早くスタートし、戦前の経験者が多数いたため、関西では敵する相手はおらず連戦連勝し、来阪した東京商大も8-0の大差で撃破、勢いに乗って昭和22年11月東京遠征を敢行し、東大・早稲田に勝利、立教には惜しくも0-0で引き分けたのです。翌昭和23年2月17日に目覚ましい再建を遂げたホッケー部に対し当時の鳥養大学総長から慰労会(茶話会だったよし)に招待され、片桐部長先生以下総勢26名が出席し懇談されたのは栄光の時代の一コマです。
皆さまご存知の石附八郎大先輩(昭和23年卒)は、フォワードで活躍されてポイントゲッターでした。総長主催の慰労会にも出席されています。90歳を超しておられますが、大変お元気で90周年にも暑い中グラウンドに来られ、熱心に観戦されていました。今でも現役に熱い激励の言葉を掛けて下さいます。
【OB会前史】
ここからは、それほど大昔の話ではありません。
ホッケー部にOB会ができたのは、今から20年前の70周年記念の時です。それまでの長い年月の間も、OBの動静把握と名簿の更新、また部活動の費用捻出のための寄付集めは営々として行われていました。私が現役であった約55年前までは、基本的に部のマネジャーが担当していました。当時の主将は4回生であり、3回生の次期主将予定者がマネジャーになり、部活動の傍らこなしていたのです。寄付集めは部員が分担して先輩の勤務先を訪問して頂戴していました。卯津羅先輩が会社経営者のOBにお願いをされ、その方の工場で部員一同が数日間汗を流し、その日当を部に納めたこともありました。
私と同期であり、大学に残って工学部教授になった国友孟さんが研究や実験の傍ら、古澤さんと共に現役を熱心に指導し始めた頃から、国友さんがこれらの庶務事項も担当したようです。彼がOB各位の個人別カードを作って整理していたと聞いています。当時はコンピューターが普及する前ですから、すべて手作業で行ったようです。
国友さんが不治の病に倒れ、惜しまれながら30年前の昭和61年(1986年)に亡くなった後は、これらの資料と業務を古澤保さんが引き継がれました。国友さんも古澤さんも部長を務められたのに、これらの庶務事項は部長先生の双肩にのし掛かっていたことになります。
【OB会の発足と組織化】
70周年記念式典の場でOB会の発足が宣言され、初代会長(代表幹事と称していた)に、卯津羅賢三先輩が就任されました。卯津羅先輩は私の2年先輩ですが、現役時代から各地のOB各位と密に連絡をされ、寄付集めにも工夫を凝らして実績を上げていらっしゃいましたが、OB会長に就かれたときは大手製鉄会社の子会社の専務をされており大変多忙であったので、庶務事項は部長であった古澤さんがそのまま担っておられました。
卯津羅先輩が定年になられて東京に移動されるのを機に、2代目会長として私を指名され、平成12年春(2000年)微力ながらお引き受けした次第です。
私がOB会長として取り組んだ重要な目標は次の3点でした。
① OB会の会則を定め、複数の理事制を採用し、庶務事項をOB会が担当する。
② 現役に対し顔の見えるOB会になるために、必ず試合会場へ行って応援する。
③ 寄付集めを強化して、現役援助費を増やす。
①については、副会長をお願いした古澤さんと野間さんの全面的な賛同と協力を得て、すぐに実現しました。理事さんには関東地区も含めて卒業年度約5年ごとに多くの方にお願いしました。②についても、退職したばかりで元気も時間もあったのを幸いに関西での公式戦はほぼ全試合を観戦し応援しました。私だけでなく、他の理事さんもOBも頻繁に来て頂けるようになりました。お陰様で、1年で4部から2部に駆け上がるという快挙の現場に立ち会うことができました。
7年後の平成19年春、大東さんに次の会長をお願いし、その後も①と②については基本的に変わっていませんが、残念なことは③の寄付金増加の件です。いまだに、機会があるたびに現役援助費を出して下さいとお願いせざるを得ません。現在の会長さんも部長先生までも寄付金不足に悩んでいらっしゃいます。申し訳のないことです。
【100周年に向けて】
現役が元気に活動を続けてこそのOB会です。現役の活動が低迷したり停止したりするとOB会の存在意義はなくなります。現状は、部員数も多く、女子部の活動も始まったので嬉しく思いますが、やはり男子チームの戦績が気がかりです。
現在の1部8大学はすべて私立大学であり、それぞれセレクション制を採用したり、専任の指導者を雇ったりして強化に努めているので、壁が厚くて高いことは理解できるが、関西以上に激戦区である関東リーグでは、東大と一橋大が1部と2部の間を行き来していることを思えば、京大も「なにくそ!!」という気概を持って頑張ってほしい。
いつも言っていることですが、「全国の国公立大学のなかで、No.1になること」を目標に努力すれば1部昇格も実現するでしょう。
100周年までの10年間でOB会員は約100名増えます。皆さんが長い歴史の重みを感じ、数え切れないほど多数の先輩方が、駅伝の「たすき」のように情熱を次々と引き渡してきた「目に見えない絆」のなかで生きていることに思いを致し、精神的にも経済的にも現役を応援し援助して頂けるなら、必ず実り多い100周年を迎えることができます。
そのときを楽しみに長生きしたいと思います。
以上