石附八郎(昭和23年卒)
p18-20
【はじめに】
平成28年(2016年)に我が京大ホッケー部が創部90周年を迎えたことに対し、まず最大の祝意を申し上げたいと思います。創部の1926年(大正15年)は私の生まれた年であり同じ歴史を辿った宿命に強い絆を感じています。数年前からどんなことがあってもお祝いの席に出たいと念願し、それを果たすことができた悦びは私の人生のなかでも思い出に残るひとこまとなりました。
先輩諸氏が営々として築きあげられたこの90年の歴史と伝統の重みを強く感じそのご尽力に対して最大の敬意と感謝の気持ちを捧げるものであります。と同時に来るべき100周年に向けての通過点として今後の10年間に携わる方々に対し限りない期待を寄せるものであります。
【創部時代を振り返って】
1926年(大正15年)という年は12月25日に大正天皇が亡くなられ年号が「昭和」に変わりましたが、10月生まれの私は言わば「大正っ子」の最後に当たり世間では所謂「大正デモクラシー」の嵐が吹き荒れており労働争議や労働団体の再編成に明け暮れた時代でありました。大正14年、社会科学研究会所属の京大生17名が所謂思想問題で当時の京都の特高警察に検挙されるという世に言う「京都学連事件」が起こり初の治安維持法の適用がなされた(詳細は1985年発刊の京都大学の精神130ページ参照)時代でもありました。
創部の経緯について京大ホッケー10年史(15ページ)に三輪龍太郎先輩(昭和4年法学部卒 旧制松本高校出身)が次のように述べられています。
『大正15年春、東京帝大ホツケー部飯田洋二、葦沢清の両君がわが京都帝大にホツケー部設立促進運動のため、わざわざコーチを兼ねて京都へ来られ高校関係の知己を集めホツケーのABCを解き、秋のスポーツウイークにはオープンゲームとして対抗戦の出来るよう学友会に対して種々尽力してくれた。いわば両君は京大ホッケー部にとって生みの親ともいうべきものである』と。
三輪先輩の手記の最後に3つのスローガンを掲げていますが、1と2は省略し3に「対東大 対北大に必勝を期すこと」と標記されています。我々の現役の頃も先輩から『東大だけには負けるな』ときつく言われたことを思い出します。
【戦争の狭間にあって】
私の学生時代は戦争の連続であり、いま考えてみると現在生きているのが不思議なくらいの思いをしています。
昭和12年 日中戦争(私が成城小学校5年生のとき)昭和16年〜20年 大東亜戦争(第二次世界大戦)昭和20年(1945年)3月私は旧制成城高校を卒業し4月に京都帝国大学(戦後京都大学)に入学、5月25日米軍機の東京大空襲により我が家は焼失、私は京都にいたため難を逃れましたが東京の家族は青山墓地に避難したとのこと。6月15日陸軍の命令により学徒出陣し千葉県市川市の陸軍高射砲陣地に入隊、8月15日終戦の日をここで迎え、9月25日復員し10月京都に戻ることができました。
私が京大に入学した4月1日は米軍が沖縄本島に上陸した日で忘れることができません。6月23日守備隊全滅の日まで過酷な戦闘が行われたのであります。私は自分史として「私の履歴書」12編を書きましたが「その7 大学入学 学徒出陣」の一部に次のように記述しました。
『大学の経済学部では所謂左翼的な有名教授が追放され右翼的な思想の教授が中心となって授業が行われていた。大学の制服には常にゲートルを巻くことを強要されズボンの折り目やシワなどは問題外だった。勿論授業の中には「軍事教練』は必須で、当時の配属将校(注 各大学には陸軍から将校クラスの軍人が配属されていた)が言うには、「京都は三方山に囲まれているから敵が攻めてくるのは南からである。よって我々は吉田山に立て籠もり肉弾戦で敵を攻撃する」と大真面目で訓示し我々学生は鉄砲を担いで吉田山に登らされたものだ。吉田山と言えば旧制三高の寮歌に「月こそかかれ吉田山・・・」と歌われた有名な山だが登ってみると意外に険しくとてもそんな情緒を感じるような気分ではなかった』
【戦後ホッケー部の復活】
戦後、京大のホッケー部の復活再建には並々ならぬ苦悩があったと聞いています。私のホッケー部入部は昭和21年9月でしたが、当時私を鍛えて下さった主将の浅田先輩(三高OB 昭和22年工学部卒)が京大ホッケー30年史(26〜28ページ)に再建の思い出を書かれています。今にして思えば当時はまだ天理や立命館はチームとして存在しておらず、京大は三高を中心に五高、七高、台北高など旧制高校OBの経験者を始め私も含めた成城OBの初心者9名が加わり、比較的早くチーム編成ができたことが幸いしたと思います。しかしそこに至るまでに浅田主将の厳命により必死になって部員集めに奔走したことを懐かしく思い出します。詳細は70周年記念誌10ページから13ページに私自身が寄稿しているのでご参照頂きたい。
当時を振り返れば一言にして言えば、関西リーグ3連覇を含む楽しい思い出にあふれた幸せ一杯の時代であったと感じています。
【現役京大ホッケー部への激励】
90年の長い歴史のなかには山あり谷ありであったと思いますが、現在平和な時代にホッケーライフを楽しんでおられる皆さんを見ていると私どもの過ごした時代とは違いすべてをホッケーに打ち込めるそれこそ幸せな時代を過ごしておられると思います。
しかしながら具体的に申し上げれば、まず大学スポーツの在り方としていやしくも「京都大学」という看板を背負って戦う以上、大学の名に恥じない懸命なプレーぶりと勝利への執念を強く燃やして頂きたいと痛感しています。せいぜい関東遠征のときにしか観戦できず、細かいことは申し上げられないのが残念ですが、来るべき100周年に向けて近い将来悲願の1部昇格を必ず成し遂げて頂きたい。そのためにはどうすればいいか?私は持論として「OB会~監督~コーチ~主将~プレーヤー~マネージャーの一体感の確立」が最優先課題と感じています。特に監督は勝敗の全責任を負う覚悟が必要と思います。平べったく言えばそれぞれの立場の人々が心をひとつにして戦うことだと言えましょう。「女子部」については創部間もないのに当初は少ないメンバーながら苦労が実りチームとしての一体感がかなりできつつあるように感じています。これは監督はじめコーチの方々のご尽力もさることながらプレーヤーの熱意が伝わってくるのがひしひしと感じられるからです。「男子部」にも熱意は当然ある筈であり、あと一歩の努力により悲願を成し遂げられると信じて疑いません。今年の東大主催の七帝戦は都合悪く応援に伺えず残念でしたが男子部の優勝は立派であったと思います。
男女とも勝利への執念と勝つための意思統一、事前作戦準備などフィジカルの部分以外にやるべきことをきちんとやる心構えが必要と思います。特に相手チームの研究、分析が極めて重要だと思います。かつて京大アメリカンフットボール部が日本一を勝ち取ったときチーム内の工学部関係者の頭脳の勝利と言われていたことに思いを馳せ他山の石として頂きたい。
たまにしか顔を出せない私の立場であれこれ申し上げるのは本意ではありませんが、同じ京都大学に籍を置いたものの一人として京大ホッケー部が勝てば嬉しいし負ければ悔しい気持ち、これはみなさんと同じであります。
【むすび】
90周年の記念すべきお祝いの席でスピーチをすることができたことは望外の幸せであり、90周年記念行事の準備万端にご尽力いただき見事成功裡に終わった今回の状況を考えるにつけ、OB会白井会長をはじめ関係者の皆様に対し心からなる敬意と感謝を申し上げたいと思います。
祝賀パーティの席で一部のOBの方々や来賓の方とも意見交換しましたがフィールドホッケーそのものをよりメジャーなスポーツにするために更にルール改正まで踏み込んだ「見て面白いスポーツ」にすることが必要不可欠なことと感じている次第です。
私自身100周年まで生きることは極めて至難なことと思います。しかし命あるかぎり京大ホッケー部(男子部女子部とも)を応援し続け1部昇格を夢見ながらその日の近いことを心より念願してやまない次第です。