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創立の思い出

前部長 菊池 秋雄

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 時と日を、はっきり記憶せぬが、昭和二年の暮に近い或る日の午後、農學部の屋上からグランドを眺めると、今迄見た事のない試合が展開されて居る。サッカーでもないし、ラグビーでもない。見物人は皆無で、いかにもさびしい試合であるが、動作は如何にも敏活である。よく見るとホッケーの試合である事が分つた。早速グランドへ行って見ると、東大對京大のホッケー試合であつて、4-0 4-1かで京大の敗軍に終つたが、實は對等の試合でなくして東大のコーチを受けて居たのだつたと思ふ、試合が濟んでから、どうもありがたうと云う御禮の辭を京大側から發した様に記憶して居る、其の當時京大學友會にホッケー部はなかつた。ホッケー倶樂部として有志の學生はチームを組織して練習にいそしんで居たのである。京大學友會の大先輩で、百萬石の殿様らしい名前の持主、法學士、前田龜千代君は私の親友である。同君はホッケー倶樂部に多大の同情を持して居た、その後、私の所へ來られて、學友會にホッケー部を設ける事になつたから、私に部長になれと云う命令である。殿様の命令と間違へて絶對服従のつもりではなかつたが、うつかり承諾してしまつた。ホッケー倶樂部は公認? されて學友會のホッケー部となり、樂友會館で創立祝賀の會合を催した。前田君や大野君が來られて大に氣勢を擧げてくれたのである。ホッケー倶樂部を法經倶樂部と早合點して、ある種の思想團體と誤認し、警察の方で目を光らした事もあつた位で、ホッケーと云ふものは廣く理解されて居なかつたのである。ホッケー部に成つてから練習も樂になり、部員も段々多く成つたが部長の盡力が不十分であつた爲に、部として驥足を伸ばし得なかつたが、昭和七年、片桐教授に御無理を御願ひして部長に成つてもらふてから、急轉直上して、今日の隆盛を見るに至つたのである、創立十周年に際して産みの親から育ての親に對して滿腔の敬意と謝意とを表する次第である。