前田 龜千代
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農學部の片桐教授が見えられ、京大ホッケー部も創立十周年になるから記念の雑誌を發行するから、創立當時の事を一寸でもいゝから何か書けとの御命令であるから以下ホンの少し書かして頂く事にする、先ず自己紹介を兼ねて私共學生時代の運動部の種類といふものを述べて私の關係した運動種目を書いて置きたい、私は大正四年に京大法學部を卒業し爾来京都で辨護士の業務に従事してゐる。私共の中學から高等學校、大學時代の運動種目といへば柔道、劍道、野球、庭球が全國的に普及されてボートなどは海邊か特殊の地位に置かれた所以外には、やつて居なかつた。然ればホッケーといふ競技については何等の観念を有して居らなかつた。大正十五年の盛夏と記憶するが突然二高時代のスケートの名人田代君からの招介状持參、二高出身當時東大ホッケー部員の飯田君が來訪し、京大にもホッケー部設置の勸誘を受けたのだが、さて柔、劍、ボート、陸上競技の各部には多少の關係を有して居るが何人に話していゝか全く見當がつかないのに弱つたが有志で時々やつてゐるといふのに力を得て確か松本高校出身の黒澤君といふ學生と相談したが當時は學友會の豫算決定後の事とて獨立した一部となす事は直ちに出來難い事柄なので暫時クラブといふ組織にして兎に角存立する事にした。それから昭和二年と思ふが遂に京大ホッケー部として獨立の存在が認められ、初代の部長には農學部の菊池秋雄教授が就任せられ忘れもしない好天氣ではあつたが寒風の吹きすさむ、農大グランドで正月の初試合をしたので私は子供等、男女四人を引き具して見物した事を今でもはつきりと承知してゐる。何といふても私としては新聞の運動欄で慶應とか戸山學校の各々と共にホッケーなる運動競技を文章丈けで知つてゐたのが本當にゲームを實地に見て知つたのが京大ホッケー部のおかげであると今日でも感謝してゐる、以上のやうな簡単な關係ながら産婆役の先走りの用事をしたに過ぎないが、早や創立十周年とは驚くと共に遂に關西に於ける覇者の地位に君臨し得た京大ホッケー部の爲に萬歳を三唱し將來の發展を祈念して私の文責を果たす事にする。